二つのクリスマス

ueno
16 min readDec 12, 2024

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Photo by Rolf van Root on Unsplash.

こちらは「Fediverse Advent Calendar 2024」13日目の記事となります。

はじめに

こんにちは、もしくはこんばんは、うえのです。Fediverseでは主にFedibird㐂五亭MisskeyMintに居をお借りしている、限界事務職です。
13日目の金曜日という聖なる日にアドカレ記事を書ける運びとなり、光栄です。

私は23年7月にFediverseにやって来た、まだまだ右も左も分からない若輩者。以後、見苦しき面体をお見知りおかれまして、向後万端引き立ってよろしくお頼み申します。

宗教観光ツアーとしてのアドカレ記事

13日のFediverseアドベントカレンダーでは、「アドベント」という語に込められた意味を解説してみようと考えています。
というのも、私はプロテスタント福音派に属するクリスチャンでして、「アドベント」は教会生活の一部として見知っているからです。

もちろん、何かの勧誘や伝道をFediverseでするつもりはありません。
もともとはキリスト教の行事である「アドベント」を、信者側からの簡単に解説してもる試みとしてお読みください。宗教観光ツアーみたいなもんですね。

ではでは、はじまりはじまり——

待降節とは

さてさて、アドベントとは「待降節」と呼ばれるキリスト教の教会暦で指定された期間です。

アドベント〘名〙 (英Advent)
キリスト教で、クリスマス前の期間をいう。待降節たいこうせつ。(精選版 日本国語大辞典, 小学館)

降りてくるのを待つ、で「待降」ということは、何かが地上に降りてくるのを待っているわけですね。それはなにか。

ご存知の方も多いと思いますが、それはナザレのイエスと言われた人物、キリスト教の多くの教義・教理では「神の子」とされるイエス・キリストのことです(ユニテリアンのように、イエスの神性を認めない教派もあります)。

教会というキリスト教の現場での雰囲気を、外部の方にもちょっと物見遊山として味わってもらいたいので、プロテスタント新正統主義の大神学者であるカール・バルトのクリスマス説教を引用しましょう。
ちと宗教臭いですが、ご勘弁を。

Karl Barth, Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons.

「そして彼女〔マリヤ〕はその最初の息子を産み、産着にくるんで、飼い葉桶に寝かせた。なぜなら、かれらは宿屋にいかなる場所をも見出さなかったからである。」ルカ10:31−32

……ここでマリアの最初の息子として生まれ、産着にくるまれ、飼い葉桶に寝かされた人とは、誰であるのでしょうか。その人は誰であるのでしょうか。……
そして私は、今回はその答えを全く単純にこう申し上げましょう。「ここで生まれた人とは、きみの味方であるし、そして私の味方でもあるし、そしてまた私たちすべての者の味方であもる、そのような人だ」と。(バルト 2010 : 376–377)

まぁ、なんつーか、ずいぶんと感動した口調です。どこかの宗教の教祖の誕生なんていうものは、このように感情的に美化されることが多いのでしょう。

しかし、ここで神学者バルトが語りかけている聴衆を考えると、事態は変わってきます。この説教は1957年のクリスマスにドイツのバーゼル刑務所で囚人に向かって行われた説教なのです。つまり、聴衆は服役している囚人たちです。
カール・バルトは晩年、大学で教えながら1954年から10年間はバーゼル刑務所で説教もしていたのでした。

ここでバルトは、囚人に歴史上のある人々を重ね合わせて説教を行っています。それは、新約聖書で描かれるベツレヘムという辺境に住む名もなき労働者たちです。

聖書にある「二つのクリスマス像」

「新約聖書」と言われる書物には、イエスの生涯や振る舞いを伝える「福音書」と呼ばれる文章が4つ存在します。おおよその成立順にマルコ福音書、ルカ福音書、マタイ福音書、ヨハネ福音書と呼ばれる書物群です。
この4つの福音書のうち、クリスマス、つまりイエス誕生物語を記述しているのはルカとマタイだけです。マルコとヨハネは、イエス誕生については沈黙しています。

ですので、後世で「クリスマス」という概念の源流となったのは、ルカ福音書とマルコ福音書です。しかし、キリスト教の世界でもあまり強調されて来なかったのですが、ルカ福音書とマルコ福音書のクリスマスは、全く違った記述になっているのです。
なぜ強調されてこなかったのかは、教理上の激論を引き起こす箇所ですので割愛します。ぼく、まだ、生きていたい。

さて、キリスト教のクリスマスといえば、東方の三博士が厩の飼い葉桶に寝かされたイエスを礼拝しているあのシーンを思い浮かべる人もいるでしょう。

Photo by Nick Fewings on Unsplash.

しかしこのイメージはルカ福音書とマタイ福音書を合成して後世に作り出されたものです。ルカとマタイでは、イエス誕生のシーンは大きく異なっています。

マタイ福音書は「新約聖書を読んでみよう!」と思い立った人が最初に読む福音書であるケースが多い。なぜかというと、大体の新約聖書において最初に配置されているからです。なぜ最初に配置されているかは、教理上の激論に(ry
そこで長々と続くイエスの系図「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを…」に面食らって、聖書を放り投げた人も多いでしょう。私もそうです。なんじゃこりゃ?と思いました。

しかしあの系図にはマタイ福音書記者の強烈なメッセージが含まれています。それは「イエスは王者ダビデの子孫であり、預言書に預言された救世主であり、地上の王者である」というものです。
ヘブル語聖書(旧約聖書)には「救い主はダビデの子孫から出る(詩編 132編)」との預言があるので、なんとしてもイエス誕生はその預言の成就でなければならない。そんなマタイの意図があります。つまり、マタイ福音書のクリスマスは「王者誕生物語」なのです。
なので、東方の賢者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とエルサレムまでやってきた。それも王者への贈り物に相応しい高価で貴重な乳香、没薬、黄金を携えて。ですので、マタイでのイエス誕生の場所は厩とは書かれていません。世界を統べる王者の誕生が、厩のような貧相な場所であってはならないのでしょう。

一方、ルカ福音書のクリスマスにはクソ長い系図も、東方の三博士も乳香、没薬、黄金も登場しません(系図は第3章でイエスの公生涯の始まりにマタイと違う形で出てくる)*1ルカ福音書の「クリスマス」は王者誕生の日ではないのです。
ルカ福音書を引用しましょう。マリアがイエスを出産したシーンからです。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ 2:6–20 新共同訳)

ここでのクリスマスは、東方の賢者がわざわざ大旅行をして礼拝してくるようなマタイ福音書とはずいぶんと違う、貧相なクリスマス像が描かれています。
だって、威厳ある東方の賢者ではなく当時の底辺労働者の羊飼いがお告げを受け、「おお、お告げは本当じゃったわい」と泊まる宿すらなく厩で生まれたイエスを見に来たのでは、宗教組織としての箔がつかないでしょう。これは、王者としてのご教祖様の姿ではありません。

ここらへんの良い解釈を日本の新約聖書学の泰斗、田川建三が行っていますので、少し読んでみましょう。

そのルカ福音書の描く像は、確かに詩的で美しい。夜、羊飼いたちが羊を守って野宿をしているところに、天使が現れて救い主の誕生をつげる。するとたちまち、天の軍勢が現れて大合唱を宇宙に響かせる。夜を徹して働いている時に、我々もまた、地面にはいつくばった生活から我々を解放する救済者が、こんな夜にどこかで生まれていてくれないかと希求する。それは大人であってはならないので、今生まれたばかりの赤子でなければならない。なぜなら、我々の解放は未来に属することだからだ。夢は未来でなければならない。こんな時に、天の軍勢の大合唱が鳴り響いたら、しかも、眠りこけている世の中のいやな奴らには聞こえないで、ひそかに起きて働いている我々だけにそっと聞こえる大合唱であってくれれば、我々はその夢のお告げに幸福を覚えて、一生また同じようにはいつくばって働いていくだろう。力つきて死ぬまで。 — — イエス誕生の物語はそういう希求が産みだした産物である。(田川 2004 : 14)

ルカ福音書のクリスマスは、このように社会の中で懸命に生活する生活者の願いとのぞみが反映されている。私もそのように理解しています。

マタイの描く王者誕生物語での東方の三博士のイメージは、確かに豪華で威厳があります。しかし、私はクリスマスには夜を徹して羊の番という重労働をしている羊飼いこそ、その日の本当の意味を知るような日であってほしいと感じます。

さて、このように見ていくと、冒頭のバルトの説教の構造も理解できます。なぜバルトはマタイ福音書ではなく、ルカ福音書を引用してからクリスマス説教をはじめたのか。彼は、バーゼル刑務所の囚人たちを救い主の誕生を目撃する羊飼いに見立てて語りかけているのです。
バルトはこのように続けます。

そして今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「きみの味方でありきみを助けてくれるまさにその他者が生きている。そしてここにいる。この他者は、あの時生まれた方だ。きみの目と耳と心を開いてごらん。そのとき、きみは見て聴いて、経験して知るようになるだろう。《その方がここにいる。そして、その方は本当に私の味方でいてくれる。ほかの誰も真似のできない仕方で — — そうだ、すべてをかけて、そしてどこまでもいつまでも — — 、まさにこの私の味方でいてくれる!》と」。(バルト 2010 : 379–380)

ここまで言われると、キリスト教圏で聖書に親しんだ人にはある情景が思い浮かびます。それは、クリスマスに生まれ、受難日に十字架につけられ2人の罪人と共に処刑されたイエスの姿です。
バルトが語りかけたバーゼル刑務所の囚人の中に死刑囚がいたかはわかりません。しかしバルトの言おうとしていることは明白です「今日のクリスマスに生まれた救い主は、たとえあなたが罪を犯した囚人であっても、死に至るまで共に歩んでくれる待ちのぞんだ味方なのだ」ということです。これは、キリスト教圏の囚人にとっては、励ましになったであろうと思います。

そしてこのような意味もありますね。「あなたがたは、世の底にある羊飼いであり、その羊飼いであるあなた方にこそ天の声が救い主の誕生を告げたのだ」と。

バルトが囚人に対して語りかけたような、そんな「なにかを待ちのぞむ気持ち」は、多くの一般信徒がクリスマスに対して持つ気持ちでもあります。教会でも待降節には説教壇の横に長い4本の蝋燭が立ち、礼拝ごとに火が灯され短くなることにより救い主の誕生が近くなっていくのを知らせてくれます。
信徒にとっては、なんかわくわくする日々です。何か大切なことが、12月25日には起こるだろう。日々のさえない暮らしが少しは報われ、絶えない苦労が少しは報われるような、なにかが — —

Fediverseのクリスマス

しかし、Fediverseは宗教集団ではありません。エンジニアと趣味人の集まりと言えるかもしれませんし、少なくとも宗教性には遠い場所であります。

ですが、上記で比較を試みたようなマタイ福音書とルカ福音書の違いから、Fediverseでのアドベントを解釈する試論を私は提出したいと思います。

マタイ福音書のクリスマスは長い王者の系図から始まる王者誕生の物語です。東方の三博士は高価で貴重な乳香、没薬、黄金を王者イエスに捧げます。そこには権力と金銭の香りがあります(マタイ福音書が好きな人、ごめんね)。
一方、ルカ福音書のクリスマスは貧しい夜勤労働の羊飼いが厩で生まれた宿なしのイエスを見に来ます。そこには、権力や資本を持たない人々の願いが現れています。

Fediverseでもクリスマスに向けてアドベント・カレンダーを作ることがよく行われますが、Fediverseのクリスマスはマタイかルカか、どちらの系譜に位置するのか。
私はルカの描くクリスマスが、権力も資本もない分散型でサーバー運営を寄付や自らの持ちだしに頼っている金のないSNSでのクリスマスに相応しいクリスマス像ではないか、と感じます。

さまざまなユーザーや開発者などが、それぞれの価値観でクリスマスを待ち望み(あるいは大して待ち望まず)、アドベントカレンダーを書いています。

そしてクリスマス当日は、クリスマス商戦で大もうけし民間ロケットを打ち上げまくる大富豪の王としてサーバーを支配するわけでもなく、インフルエンサーとしてインプレッションから利益を得て世論を操作するのでもなく、ユーザーの個人情報を商品として売り飛ばす企業経営者としてサービスを提供するのでもなく、いつもの部屋でモニターの前に鎮座しながら「めりくりー」とかいう投稿を連合に放出しているでしょう。もしくはいつもの飲み屋で飲んでるか。

Fediverseの設計思想は、黄金と高価な香料を捧げる「Fediverseの王者」の誕生を待ちのぞむものではありません。

私たちはクリスマスも「Web3.0ってなんだよ、そんなもん来てねーよ。せめて広告まみれのサイトがないWebが来てくれよ」「Fediverseがもうちょっと流行んねーかな、分散型って自由で面白いんだけどな」「運営費の半分くらいは安定した寄付が集まんねーかな」「Xのフォロワーこっちに来てくれないかなー」などと、2000年前のベツレヘムで自分たちを解放してくれる「何か」を待ちのぞんだ羊飼いたちのように、Fediverseで「何か」を待ちのぞみつつ過ごすでしょう。

ルカ福音書の描く、そして私の理解するクリスマスは、私たちのような者のための日です。
Fediverseという分散型の放牧地で日々ごそごそ生きながら、権威や中央集権型の支配ではない自由な「何か」を待ち望み続ける私たちのためにこそ、Fediverseのアドベントが、クリスマスがあります。

そこには王と黄金はなくても、待ちのぞむ自由で開かれた「何か」はあるのです。

さいごに

以上が、私のFediverseにおけるアドベントの試論となります。拙い文章をお読みいただき、ありがとうございました。

最後に、私がいつもお世話になっているサーバーの管理者さんたちに個人的なお礼を言わせてください。のえるさん、木野どど松さん、テトラさん、いつもありがとうございます。

そして、Fediverseのみんなのクリスマスに、豊かな祝福がありますように。

God bless Us, Every One!
— — ディケンズ『クリスマス・キャロル』むすびの言葉

参考文献

田川建三 2004 『イエスという男 第二版[増補改訂版]』 作品社.
バルト, カール 2010 『聖書と説教』天野有編訳, 新教出版社.

*1 12月15日追記
「ルカ福音書のにはマタイと違いイエスの系図は出てこない」と書きましたが、説明不足の表現だったので訂正しました。

伝えたかったのは、マタイのように系図を使いクリスマスを王者誕生物語とルカはしていない、ということです。
訂正の上、誤記をおわびします。

マタイとルカには共に系図がありますが、その位置と内容は異なっています。
マタイは冒頭に配置し、系図の始まりを「アブラハムの子ダヴィデの子の」とユダヤ民族の始祖アブラハムにしています。

一方、ルカは系図をイエスが洗礼を受けるシーンに配置し、系図の始まりをユダヤ民族の始祖アブラハムを突っ切り、アダムから神までさかのぼります。
これは顕著な違いです。

マタイとルカの系図の違いについて、田川建三の解説を引用します。

「ここには、アダムは神の子であり、従ってアダムの子孫である全人類は神の子なのだ、という理念が表白されている。まさにストア派的な、人間は神から生まれた『神の一族』である(使徒行伝 十七・二八)。……まさにこの点がルカの系図とマタイの系図(アブラハムからはじめて、イエスを生粋のユダヤ人として描こうとしている)との根本的な相違なのである。」
(『新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書』 174頁)

ここらへんのおおらかさが、私がルカのほうを好きな理由ですね(マタイが好きな人、ごめんね)。
救いはユダヤ民族に限定されないのです。

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Written by ueno

哲学 / 宗教思想 / 多元論 / 事務職 / 主夫

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