<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-10-11<br>更新日: 2025-10-13
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# コリン・フレッチャー『遊歩大全』
[コリン・フレッチャー](https://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Fletcher "https://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Fletcher")ーは現在まで続くバックパック文化の礎を築いた伝説的パックパッカーだ。
彼の主著となった『遊歩大全(The Complete Walker)』(1968)は1978年に日本のアウトドア文化の先駆者であった[芦沢一洋](https://nepenthes.co.jp/bunker/lifestyle/22/01.html "https://nepenthes.co.jp/bunker/lifestyle/22/01.html")の熱のこもった翻訳によって日本語訳された。
この本が日本のアウトドア文化に与えた影響は、大きなものだろう。残念ながら長らく絶版となっていたのだが、2012年に山と渓谷社によって[復刊された](https://www.yamakei.co.jp/products/2812047520%20.html "https://www.yamakei.co.jp/products/2812047520%20.html")。
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自然の中を歩くことは素晴らしいことだ。しかし、同時に批判もある。「それは現実からの逃避行動ではないのか」という批判である。
ユング派の精神分析家であるフランツが『永遠の少年』で描いたハイカーの姿は、まさしく現実逃避としての姿だ。少し長くなるが、引用しよう。
>同時に、非常に象徴的なのは、永遠の少年が危険なスポーツ、特に飛行や登山といった、できる限り高く登れるようなスポーツに強く惹かれる点だ。この態度は現実や大地、日常生活といったものから逃避したいという気持ちの表われである。この型のコンプレックスが強い場合は、飛行機事故や山の遭難で若死にすることさえまれではない。彼らはふつう忍耐や長い訓練を必要とするスポーツを好まない。というのは、永遠の少年はたいへん気が短かいので、そういう気の長いスポーツには惹かれないのである。私の知っている若者は永遠の少年の好例といっていいと思う。彼は恐ろしいほどたくさん登山をしたが、リュックサックを背負うのが嫌なばかりに、戸外の雨や雪のなかでも眠れる体を作る方をあえて選んだ。つまり雪のなかに穴を堀ると、絹のレインコートにくるまって、一種のヨガの呼吸法を使って眠れるように訓練したのである。彼は食事をほとんどとらない訓練もしたが、それもただ、重い荷物を持ちたくないがばかりのことだった。何年間もヨーロッパ中の山や他の大陸の山を歩いたが、眠るのは木の下や雪のなかだった。ある意味では英雄的な行動といえなくもないが、実際には山小屋にしばられたり、リュックサックを背負うのがどうにもいやだったからにすぎない。この種の若者が実生活のなかでも、なんらかの重さにわずらわされるのを嫌う事情を考えれば、この話はいかにも象徴的だといえるだろう。実際、彼が頑として拒むのは、何かに対して責任をとること、現実の重さをになうことなのだ。[^sjw9]
日本でも先の戦中は山歩きは個人主義の危険思想として国賊として扱われた歴史がある。どうもハイカーには「未熟さ」や「個人主義(利己主義)」という批判はつきまとう。
フレッチャーはそれらの批判に対して、このように反論する。
> ウォーキングそのものに対する、もっと積極的な反対派もいる。何年か前のことだが、「現実からの逃避」(escaping from reality)のためにウォーキングに出かけるのではないかと言われたことがある。私は一瞬守勢にまわったようだった。そして考えてみた。なぜ人は、冷えたシャンペンのほうが、マウンテン・クリークから流れ落ちるあの氷のように冷たい水よりも「リアル」なのだと考えるのだろうか。なぜ、ほこりっぽいアスファルトの歩道のほうが、あのタンポポのじゅうたんよりも「現実」なのだろうか。ボーイング747ジャンボ・ジェットは、日の出と一体となって飛翔する純白のペリカンよりも「リアル」だと、なぜ言えるのだろうか。言葉を換えて、もう1度言おう。ウィルダネスの美、沈黙、孤独から生まれ出るものより、シティー・ライフから生じる行動、感情、価値観のほうが、なぜ「リアル」なのだろうか。[^sfa]
日常生活の「現実」、いやはや、それは確かに大切なものだ。私たちは仕事や地域生活に責任をもたなければならない。しかし、どうだろう。山頂から見渡す広大な青空と山々、痛いほど冷たい岩清水、山々を自由に吹き巡る風たち、そのようなものと日々の仕事や人付き合いを比べた時、どちらがより「リアル」だろうかね。
フレッチャーはユーモアを交えてそのように読者に問いかける。
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フランツの指摘もフレッチャーの指摘も、共に真なるものであると私は考える。たしかに私たち山好き・ハイキング好きはどこか未熟だ。家庭や仕事をほっぽり出してでも山に向かったことのある山好きなら、その自責の念はどこかで持っているはずだ。
同時に、そこでの体験は鮮烈に「リアル」だ。そこで私たちは、自分の命と振る舞いに責任を持ちながら、自分をはるかに越える自然と対峙している。
私たちは自由意志をもっている。精神は欲するものを欲する。
ある時は生活を、ある時は自然を歩くことを。
あなたの都市生活にこの本の内容は寄与することはないだろう。しかし逃避であれ自由への飛翔であれ、あなたが都市から一歩足を踏み出したのなら、この本の内容はかけがえのない知恵の宝箱となるだろう。
[^sfa]:コリン・フレッチャー, 2012,『遊歩大全』 芦沢一洋訳, 山と渓谷社, 39.
[^sjw9]:M.-L.フォン・フランツ, 1982, 『永遠の少年』 松代洋一・椎名恵子訳, 紀伊国屋書店, 10.