<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-10-14<br>更新日: 2025-10-15
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# マルクス・ガブリエル, スラヴォイ・ジジェク『神話・狂気・哄笑』
マルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないか』で市井にも名を馳せた哲学者である。
当初、私の彼に対する評価は「また一発屋なんでしょ」という、冷ややかなものだった。しかし、この『神話・狂気・哄笑』でのガブリエルの指摘に、私は打ちのめされることになった。
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私の哲学遍歴はカントから始まった。『純粋理性批判』(原佑訳, 平凡社ライブラリー版)を高校生の時に読み、その意味不明さに驚いたことが始まり。それまで、河出書房の世界古典シリーズなどを読み、いっぱしの「読書家」気取りでいた。言葉になっているものなら、なんとか読めるという自負があった。それを打ち壊したのがカントだった。
あまりに意味不明だと、逆に読んでみたくなるものである。なので、哲学専攻に進んだ。
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さて、哲学の世界にはたくさんの亡霊たちがいる。その亡霊とは「固定観念」というものである。カントにも、さまざまな偏見とも言える固定観念がこびりついている。カントは物自体は認識し得ないと主張する不可知論者だった(誤読である)、カントは純粋理性批判で神学批判をした(誤読である)、カントはヘーゲルへと繋がるドイツ観念論の祖である——
この最後の亡霊は、私の信念体系の深い所にあったものだ。カント、シェリング、ヘーゲルとドイツ観念論は発展し、フォイエルバッハやマルクスによって古くさいそれが解体された。なるほど、分かりやすく美しい物語だ。思想の歴史は、そうやって発展してきました。
ガブリエルはこの本で、まずカントの再評価を行う。ヘーゲルに欠けていてカントにあるもの、それを見つけようというのだ。
それをはじめて読んだ時は「そんなことが可能なのか」と驚いた。カントは静的な思想体系を樹立し、それはヘーゲル弁証法の動的な思想で克服されたはずなのに。
>この洞察を強調することで、カントは旧来のデカルト的自己を規定因子Xという地位、すなわち**規定作用の可能性の無規定的条件**へと還元する。厳密に言えば、それは自我としてすら規定されず、「思考するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)」としてしか規定されない。その結果、経験の構成的活動はアクセスできないものとなる。かの構成を遂行するのは我々であるが、それにもかかわらず、我々の世界を構成するものを我々は把握できない。不気味な見知らぬものが主体の圏域を充し始め、内部から主体の同一性を脅かす。このように、カントは匿名の超越論的主体性そのものに内在する、完全な意味論的統合失調症という恐ろしい可能性に気がついた最初の一人であった。主体はそれ自身何かが現れるかもしれない空間であり、ハイデガーのいう「開けた場所(offene stelle)」である。そのため、主体それ自身は自らの世界像の舞台に現れることができない。それゆえ、自己は現象になる。[^dfafga]
この指摘はカント理解としてはある意味ありふれたものだ。人はさまざまな現象を「経験」する。しかし、その経験を形作る原理そのものを経験することはできない。しかし私も、それをデカルト否定とは捉えていなかった。デカルトのコギトは、確かにここでは無力化されている。我思う故に我在り、という自己の思考を支配するコギト(個)は、ここで座礁する。その思考プロセスを成り立たせている原理そのものは、他律の中に消える。
これだけでも衝撃的な指摘だった。カントのラディカルさを理解していない自分の姿に直面することとなった。
しかし、もっとも強く私を揺さぶったのは、次の記述である。
>もし必然性を命題領域内部のなんらかの真理に帰属させるなら、その際に我々は、その領域の構成がそれ自体偶然的なものであるということを忘れているのである。必然性が主張されるのは、なんらかの枠組みとの関連においてであるが、そうしたどんな枠組みも、我々のような有限な被造物にとって理解可能になるためには、規則という、したがって規則に従う実践という規律を前提とする。それゆえ、我々が必然性を認めるあらゆるものは、高階においては偶然的である。なぜなら必然性という規定性を可能とする枠組みそれ自身は、必然的であることができないからである。別の言い方をすれば、或る地点で、我々は素朴な決定——合理性を構成する決定であるが、それ自体は合理的でも理性的でもない決定——に出会う。この無根拠性は、結局は偶然性の経験であり、この経験の偶然性をそれ自体必然的なものとして描とうとすれば、それによって他の偶然的な枠組みを生み出さざるをえない。それゆえ、偶然性は必然性の可能性の条件である。論理あるいは論理空間の領域というものが他の領域と並んだ一領域にすぎないという事実に照らすなら、世界構成の究極的な偶然性は前論理的なものである。[^d322]
先述のカントの不確実性の洞察を使用し、ガブリエルは痛烈にヘーゲルを、また後世のヘーゲル理解を批判する。
ヘーゲルといえば「必然性」と「発展」の思想家である、そのような理解を私もしていた。しかしその「必然性」とやらは、必然性を構築する枠組みを必然化しはしない。無批判に、その前提を受け入れる他ない。
もう少し分かりやすく説明しよう。実験科学は世界に関する多数の事実を明らかにしてきた。その成果は、私たちが今日生きていることによって証明される。いったい幾人の人が「科学の成果なしで、私は今まで生きてこれた」と言えるだろうか。
しかし、その科学も、自らを「真理」であると主張することはできない。なぜなら、科学を科学たらしめている枠組みを科学は証明できないからだ。それは「自然の斉一性」の問題だ。
今日まで太陽が物理法則に従い、この地上を照らしたからといって、なぜ明日も同様の法則が続くと言えるのか。今日の物理法則は、なぜ明日も続くのか。科学も哲学も、この問題を解決していない。自身の拠っている原理を証明できなければ、自らを絶対的な「真理」や「必然」であると主張することはできない。
これと同じことがヘーゲルにも言える。彼の弁証法は歴史的「必然性」に基づき運動し、社会を発展させると仮定される。しかし、その弁証法が構成されている枠組み自体は、弁証法によって保証しえない(無根拠性)。ヘーゲルの必然性も、偶然性によって成り立っている。私の中のヘーゲル理解を破壊するには、十分な指摘だった。
これはヘーゲル理解に留まらず、私の歴史観、社会観すらも打ち壊すに十分だ。
どこかで「確実な真理というものがある」と仮定しており、「それに向かって進み、それを得ればすべて上手くいくはずだ。今の自分が上手くいかないのは、その唯一絶対の真理を理解していないからだ」と仮定していた。しかし、ガブリエルの指摘に基づくなら、そのような世界観を持つことは**不可能**である。なぜなら、常に人間の認識は偶然性を前提とせざるを得ず、その偶然性の上で私たちは判断し行動しなければならなくなるからである。
私の完全主義は、ここで破綻することとなった。たしかに、偶然性は無視できるような些末な概念ではない。大学6年間で私が固めた思考体系は、30歳にして破壊されることとなった。
しかし、そこから新しい「自由」の概念を得ることができた。5年ほど時間はかかったが、それは以前より柔軟で豊かな概念だ。
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ガブリエルは必然性を否定することはしない。それは科学否定になる。必然性は「必然性はただ規定された対象領域の内部でのみ評価される」[^sfgs]と主張される。これにより、「科学は世界の真理である」とする科学主義は否定される。「私」という現象を、科学における「脳」に還元することは不可能だ、とガブリエルは主張するのである。
同時に、自らを絶対化する神話体系をもつ宗教の掲げる「必然性」も否定される。ガブリエルは徹底した多元論の思想家なのだ。
絶対的真理、絶対的自我がない世界で、私たちはどのように生きればよいのか。完全なる必然性が否定されたならば、私たちはどこに確かさを見いだせば良いのか。人間に自由はあるのか。
ガブリエルは第一章の最後で、実存主義の古い概念に立ちかえるように見える。しかし、統一された原理を持つ「世界」なるものは存在しないという前提の上での彼のラディカル・デモクラシーは、科学にも宗教にも協働の可能性を拓くものだ。現象としての「個」が偶然性の中で自己を決定していく、ヘーゲルにはない新たにダイナミックな哲学が、そこにはある。
ぜひ第一章を読んで、その結論を確認してもらいたい。刺激的な知の冒険が、そこにあるだろう。
[^dfafga]:マルクス・ガブリエル, スラヴォイ・ジジェク. 2015,『神話・狂気・哄笑』 大河内泰樹, 斎藤幸平監訳, 堀之内出版, 64.
[^d322]: ibid., 86.
[^sfgs]:ibid., 171.