<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-1<br>更新日: 2026-2-1
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# 山本七平『「空気」の研究』
山本七平の空気研究の面白さは、多く誤解されているように思う。『失敗の本質』のような社会科学的分析を求めるなら、失望に終わるだろう。
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しかし、山本がなにを下敷きに空気研究を行うかを理解する人には、恵みの多いテキストだ。それは「十戒」である。
ヘブル語聖書「出エジプト記」において、モーセは神からの律法を授かる。それが十戒だ。
>あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。
第一・第二規程は「汎神論・偶像崇拝の禁止」規定である。この規定の上で、殺人の否定などの人間間の道徳規定が行われるのがヘブル語聖書だ。
環境問題の利権闘争を例に、山本は次のように指摘する。
>従って、柴田公害研究所長以下の「調査団」は、肩書はみな科学者だが、科学者が物体そのものを倫理的判断を持ち込んで裁判するはずはないから、実質的には物神論的宗教家のはずである。従って北条氏が「……この種のこと(光化学スモッグの発生には定説がない)を、専門家である学者諸君が、もちろん知らないはずはない……」といわれて不審がるのは、「調査団」の異端審問官を肩書通り「科学者」と考えられるから生じた疑問であって、「物神論的宗教のまじめな信徒」と考え、その宗教的規範に基づいて自動車を裁判していると考えれば、少しも不思議ではない。これはおそらく戦艦大和出撃にもいえることである。海空の実戦を経験したベテランの判断と思うから不思議なので、大和を一つの人格と見た物神論的発想に基づく宗教的決断と考えれば、別に不思議とするに足りないのと同じであろう。[^43r32]
なにかを絶対的な善(ここでは環境規制)と設定し、何かを絶対的な悪(環境汚染物質とされるもの)とすると、人はその善悪の対立構造に支配され、自律的な判断が不可能となる。それを山本は「偶像崇拝」、つなり物神論的(多神教的)宗教による、偶像崇拝であると捉える。
対象に主観的感情移入を行い状況倫理を作り出し、自らに状況を超えた律法を課さない姿勢を批判しているのである。ここでは汎神論的多神教と一神教の世界観が対比されているのだ。
十戒は神から与えられた人間を超えた法であり、人や世界が作り出すいかなる状況においても「殺してはならない」「偽証してはならない」と命じ、それを破ったものは神の審判の前で罪を宣告される。
このようなヘブル語聖書の世界観は、啓蒙主義を経た現代には「古くさい非科学的な論理」として否定されるだろう。しかし、それを否定したあなたがたは、自らが善とした対象への偶像崇拝に陥っており、そこであなたがたは物神論的宗教を構成し、十戒の民よりも非倫理的であり、非科学的であり、没個人的ではないか。山本の鋭い指摘がそこにある。
戦後民主主義に生きる我々が、第二次大戦期に濃密にあった「空気」というものを単なる雰囲気と捉え、「自覚した個人として、空気に従わないように生きよう!それで全体主義は克服できる!」と能天気に思い込む。そして、次の瞬間には意識せず何かを崇拝し始め、状況を超えた神法である「十戒」のような価値判断基準を持たない。そんな有り様を批判しているのである[^dfdsds]。
山本はアメリカのキリスト教<ruby>根本主義<rt>ファンダメンタリズム</rt></ruby>に対し「日本的根本主義」を分析し、次のようにそれを定義する。
>それは一言でいえば空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中に解体吸収しつつ、その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける状態なのである。これが恐らくわれわれのあらゆる体制の背後にある神政制だが、この神政制の基礎はおそらく汎神論であり、従ってそれは汎神論的神政制と呼ばれるべきものである[^fafa]
「水」の論理と「空気」の論理の共謀関係を指摘し、それが構成する汎神論的神政制が日本人の「根本主義」を成しているとの指摘は、現代においても有効だ。
現代も戦中と同じく、市民は状況倫理という「空気」を超えた価値基準を持たず、「個人」という概念は成立していないのではないだろうか。
SNS等において「空気の論理」の支配から意識的に「目覚めた(Wake)」人々が、さらにひどい汎神論的神政制を構築していく状況を見るに、私には、山本の指摘はその通りに思える。
同時に、現在のように意味への嫌悪がシニシズムを生み、個人を超えた価値規範よりも、個人の「気分」が絶対化される偶像崇拝の社会にあっていかに歴史に対峙する「個人」が成立するのか。それは「気付き」という主観性では、克服不可能な問題だろう。
そのような重大な問いをめぐる良書であった。
[^43r32]: 山本七平, 2018, 『「空気」の研究』 文藝春秋, 32.
[^fafa]: ibid., 229.
[^dfdsds]: ここで「空気」の論理と同じく重要になるのが、空気に「水をさす」通常性の論理である「水」の論理である。この点は本書を読まれれば、理解できるだろう。