<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-5-3<br>更新日: 2026-5-3 </span></p> # 冬野アヤネ『スーパーナチュラル』 [冬野アヤネさん](https://fuyunogarden.com)の画集『スーパーナチュラル』を落掌した。冬野さんとはFediverseで出会い、現在も風呂戦争[^0fs0s]などを闘っている<ruby>強敵<rt>とも</rt></ruby>である。 &#13;&#10; &#13;&#10; ![[fuyuno.png|460]] &#13;&#10; 今回は冬野さんの『スーパーナチュラル』を、キリスト教の古代教父[アウグスティヌス(354-430)](https://kotobank.jp/word/%E3%81%82%E3%81%86%E3%81%90%E3%81%99%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AC%E3%81%99-3140375)における「メモリア」の概念で解釈してみたい。 ### 画集の流れ まず「洗濯物オフィーリア」という絵がはじめにある。オフィーリアはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物であり、冬野さんの絵はジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」を踏襲している。 ここでは、人物は前景にあり、植物は後景にある。人物と植物は空間的に分離している。その次は「横断中」である。巨人となった人物が海原を横断している。ここでも、人は人である。 その次の「花になる」(表紙絵)からは、人物と植物の境界は消滅する。髪と腕は葉となり、背後の植物(フクシアだろうか)は人物を覆うように花を咲かせる。 以後は「蘭の人」や「まどろみ」など、同じくスミレ、ツツジなどと一体となった人物が現われる。そして最後の絵画「イラスト」において、もはや最初のオフィーリアのような輪郭を失った、山と渾然となった人物の絵で終わる。 「我思う、故に我在り(Cogito, Ergo Sum.)」という命題において、「自己(我)」は他の存在を必要とせず自己として存在することを主張したのは、近代思想の父と呼ばれるルネ・デカルトである。そのような「自律」の風景は、この画集にはない。 ### メモリアとスーパーナチュラル 一方、「自己」というものを常なる変容として捉えたのが、アウグスティヌスだ。 アウグスティヌスにおいて外(事柄の外的側面)、内(それと人間の内面との関わり)、超越(外的事柄と内的状況を超越したものに目を向けること)に順に目をむけ、その三つを一つとする解釈学的な働きをメモリア(memoria)と呼ぶ[^fadfa]。 『告白』において顕著だが、アウグスティヌスは自己の状況や行為とその内面との関わりを現在において言葉により想起し、その想起された自己と超越者(神)との関係を語る(告白)ことによって、現在から過去を変容させてゆく。 その営みにおいて、人間は自己を過去、現在、未来にかかわるあらゆる時間の中で変容させてゆく。これがメモリアの力(vis memoriae)である。 &#13;&#10; &#13;&#10; > メモリアは「告白録』全体を統一的に理解する鍵である。アウグスティヌスのメモリア論には二つの中心がある(F・キュンメル)。 > ー メモリアの場(spatium memoriae) これは、人間が歴史において自己に出会う場である。そこで人間は、自己の過去の結果(歴史)としての自己の現在の状態を認識することができる。過去と現在の、外と内との自己把握の場(第十巻八章十五節)。 > ニ メモリアの力(vis memoriae) これは、過去のみでなく、現在、未来における時間的可能性のすべてに関わる。人間の意識のなかで、過去、現在、未来にかかわるあらゆる時間が現存する。これがメモリアの力である(同十六章二十五節、同二十章二十九節)。 > >>これらのことを私は内奥で、つまり、私のメモリアの大きな広間のなかでする。……そこで私は自分とも出会い、私が何を、いつ、どこで、したか、それをしたとき、どんな気持ちであったか、を想起する。(同八章十四節) > >とアウグスティヌスは述べる。つまり、メモリアは、時間を貫いて持続する自己に関わっている(山田晶)。アウグスティヌスの、メモリアは私自身である、という表現はこの意味で理解されるべきであろう。したがって、人間はメモリアによってのみ、自己認識をなし得るとも言える。[^fasdfa] &#13;&#10; 「スーパーナチュラル」とは、日本語では「超自然」と訳せる英語である。 アウグスティヌスにおいては、今まで確かに「このように」あった現存の自己は、その自己のメモリアにおける営みにおいて変容する可能性を持つ。現在の自己を「自然的」な自己とするなら、その自然的なものに、なんらかの超越的視点と関連づけられた語りや運動において、自己は「超自然」的自己となり得ると言えよう。 &#13;&#10; &#13;&#10; 画集の登場人物たちが、どのような外的・内的言語行為によって植物という他者と絵画の中で融合するまでに変容したのかは、絵画という表現手段を通じてその結果を受け取る我々には知りえない。 しかし、そこで、自然の斉一性においては起り得ない「何か」が起ったことは確かだろう。自己の内面の世界において、アウグスティヌスには回心として訪れた「何か」は、絵画では人と植物の融合という形で表現されていると、受け取り手は解釈できる。その「何か」に思いを馳せることに、この画集は見るものを誘うのだ。 植物と一体となった人物がみせる、微睡むような瞳は、メモリアの場においてなにを想起しているのであろうか。 [^0fs0s]: どちらが先に風呂に入るかという、大人がするべきではない不毛な争い。 [^fadfa]: 宮谷宣史, 2004, 『アウグスティヌス』 講談社, 323-328. [^fasdfa]: ibid., 325-326.