<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2023-10-2<br>更新日: 2025-10-07
</span></p>
# 多元主義と精神疾患
精神疾患の人と触れあう機会が多いのだが、彼女ら彼らの多くが二元論的な白黒思考にはまりこんでいる。好きか嫌いか、いいか悪いか、正解か不正解か、といったようなものだ。
以前はそれらの二元論的な対立する世界観を「統一」することが大切なのではないかと考えていた。対立する考え方を止揚し、新たな観点を生み出すことが成長なのだろうと。
しかし、それは二元論と一元論の間を行ったり来たりするような精神の運動で、それ自体が二元論の世界観の産物であることにも気がつくようになった。なんらかの「本質」のようなものを仮定して、それだけが真の実在であるという考え方も、かなり強迫的なのだ。
30歳をすぎてウィリアム・ジェイムズやマルクス・ガブリエルなどの多元論の思想家と出会うことになった。彼らの多元論は可謬主義(Fallibilism)と結びつく傾向があり(特にジェイムズは顕著である)、人間の認識は統一された絶対の真理に到達することはできないし、そのようなものは存在しないとする認識論だ[^uw7][^us8]。
なんらかの「正解」がこの世には存在して、学びや実践を通して人はその唯一の「正解」に近づいていくような世界観を持っていた僕には、かなり衝撃的だった。
特にジェイムズの多元論の立場を継承するアメリカの精神科医ナシア・ガミーが主張する、それぞれの限界と領域を持った方法や価値が多数存在し、人はそれぞれを限界あるものとして使用していくべきであるという考え方には衝撃を受けた[^6tt]。
安易な折衷主義や無責任な相対主義とは違う考え方が、そこには描かれていたのだった。
さて、冒頭に精神疾患の人の話を書いた。精神疾患からの回復というのも見てきているが、DSMやICDでさまざまにカテゴライズされ定義されている疾患からの回復に一つ共通するものがあるのではないかと感じている。
精神疾患から回復した人はどこか世界観が変化しており、その世界観は「多元主義」という言葉で表現できると感じる。
精神科医の中井久夫は以下のように述べている。
> 「治る」とは「病気の前よりも余裕の大きい状態に出ること」でなければならないが、これも、よく考えてみると精神科の病気に限らないことだろう。[^8wq]
ここで言うところの「余裕の大きい状態」というのは、強迫的な二元論や一元論の世界観ではなく、病者が「社会や周囲にはさまざまな人がさまざまな価値観を持ち、さまざまなやり方で生きている」「自分にはそれをすべて理解できない」という多元性、可謬性を受け入れる状態なのではないか。少なくとも上に引用した中井の文脈はそうである。
すべてを理解しようとすると永遠の闘争に陥るか、自己の内的世界に耽溺するかといった閉鎖的な結果を引き起こすのだろう。
それは、なんらかの脆弱性をもつ人には絶えきれない葛藤と戦闘なのだろうと、精神の病者を見ていると思わされる。
どうやら、精神的な健康は「自分にはよくわからんことがたくさんある」という当たり前のことを認められる世界観と切り離せないようだ。
それは、常に自分のそばに理解できないなにか(他者、自然、思想など)が存在し、生きるためにはそれらと対話と理解への試みを続けなければならないという、たいへん面倒な世界観なのであるが。
[^uw7]: ウィリアム・ジェイムズ, 1957,『プラグマティズム』桝田啓三郎訳, 岩波書店.
[^us8]: マルクス・ガブリエル, 2018, 『なぜ世界は存在しないのか』 清水一浩訳, 講談社.
[^6tt]: ナシア・ガミー, 2020,『現代精神医学原論』村井俊哉訳, みすず書房.
[^8wq]: 中井久夫, 2011,『世に棲む患者』ちくま学芸文庫, 35.