<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-4-20<br>更新日: 2025-10-8
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# 「信仰」とは —教会という現場にて見える姿
私が教会へ通い始めたのが2019年です。今年で6回目のイースターを迎えました。
何年も礼拝に通っていると、好きな聖歌(賛美歌)も出てきます。今日は私の好きな聖歌を紹介しながら、キリスト教会の現場を描いてみましょう。
私の母教会の聖餐式では、「心を高くあげよ」という聖歌が使われています。私たちプロテスタントよりも、カトリックの方に馴染み深い聖歌でしょう。
このような歌です。
> 「こころを高くあげよ!」
> 主のみ声にしたがい、
> ただ主のみを見あげて、
> こころを高くあげよう。
>
> 霧のようなうれいも、
> やみのような恐れも、
> みなうしろに投げすて、
> こころを高くあげよう。
>
> 主から受けたすべてを、
> ふたたび主にささげて、
> きよき み名をほめつつ、
> こころを高くあげよう。
>
> おわりの日がきたなら、
> さばきの座を見あげて、
> わがちからのかぎりに、
> こころを高くあげよう。
英米の教会で親しまれた Lift up your hearts! を日本語訳したものです。
この曲の元となったのは旧約聖書の[哀歌3章41節](https://www.bible.com/ja/bible/1819/LAM.3.%25E6%2596%25B0%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E8%25A8%25B3)ですが、そこにはおどおどろしい軍神としての神と、裁きを恐れながらも自らの窮地において神にすがる者の姿が描かれています。
しかし、この聖歌にはそのようなおどろおどろしさはありません。
むしろ、「憂いも恐れも投げ捨てて、自分たちの心を神に向けて(誇らしげに)あげよう!」という、なんともすがすがしい心構えが見て取れるのは、私だけでしょうか。
ここには[詩編104](https://www.bible.com/ja/bible/1819/PSA.103.%25E6%2596%25B0%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E8%25A8%25B3)にある神概念があるように感じています。
> 主はわたしたちを
> 罪に応じてあしらわれることなく
> わたしたちの悪に従って報いられることもない。[^987]
さて、「キリスト教」というと、「最後の審判」とか「神の裁き」といった、黙示録的な恐ろしさや偏狭さを思い浮かべられることもあるかもしれません。そのような考え方を大切にされる教派や信徒さんも、実際におられます。
しかし私の周囲に限って言えば「死は信仰の完成であり、死者は天国において、神様とともに安らいでおられる」とみな信じています。
高齢の信徒さんが、末期がんで入院しておられました。彼は毎週、自分の生存報告として、牧師を通じて簡単なメッセージを毎週の礼拝に贈ってくれました。
その彼が、死のすぐ前にくれた言葉が「私はこれから死にますが、死は怖くありません。私はこれから、私の神にお会いできるからです。私は天の国へ行った後も、皆さんの平安を祈っています。」というものでした。
彼のメッセージには最後の審判や罪の裁きを恐れる言葉は一つもありませんでした。そこには自分が信じる神へのおおらかな信頼と、安心感があった。そして、彼は数日後に召天されました。
「心を高くあげよ!」を歌うたびに、恐れと憂いを投げ捨てて、心を高くあげて亡くなられた方々のことが思い浮かびます。彼らにも恐れも不安もあったでしょう。末期がんの痛みは非常に苦しいもので、先述の彼もそれで苦しんでいたと牧師から聞きました。
それでもなお、「神は私たちを、私たちの罪にしたがって報いられることなどない」と信じた、そんな信仰の姿が現場にはあります。
心を高くあげよ、いいじゃないですか。自分の罪やら欠点やら失敗やらにくよくよするのではなく、それらがあったとしてもなお、赦しや愛を信じて歩んでいく信徒の姿がそこここにあります。
終わりの日が来たなら、裁きの座を見上げて、力いっぱい心を高くあげる。裁き主は、私たちの罪を許し、私たちの罪で私たちを判断されないからだ。
意味もなく難解で抽象的で生活となんの関係もない神学議論よりも、そのような信徒さんたちの姿を見るほうが、よほど「信仰」の意味がわかるというものだ。私はつねづね、そう感じています。
[^987]: 日本聖書協会, 1987, 『新共同訳 聖書』詩篇104.