<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-10-8<br>更新日: 2025-10-8
</span></p>
# 新サイトに引っ越し
昨年、FediverseでObsidian Publishを教えてもらった。それからObsidian Publishを使い、在野での学術関係のサイトは作っていた。
一方、趣味の個人サイトのほうは23年からMediumを使っており、いつかObsidianなり他なりに移行したいとは思っていた。しかし時間と余力がなく、1年かかった次第。
テキストサイトはシンプルなものが好きだ。大学生の時、取り憑かれたように読んだNumeriもシンプルだった。文字があるのみ、写真はおまけ。そういったテキストサイトにどうしようもなく愛着を感じる。
思えば、ワールドワイドウェブに毎日アクセスする習慣がついたのも、掲示板だった。小学5年生の頃だったと思うが、電話線とデバイスを使って遠い所の誰かと文字で話をする楽しさに脳を焼かれていた。それから個人ブログの時代が来て、いつのまにやらネットには動画やイラストがたくさん存在するようになった。
今では、毎日アクセスするのはFediverseとYouTubeになった。Fediverseで会話や雰囲気を楽しみ、YouTubeで国内外の情報を得る。しかし、それではどこかさみしい。
Mastodonやmisskeyでは、発信するのも短文が主だ。それはそれで大変好きだ。いや、しかし、どこかさみしい。
どこかでまとまった文書を書き発表する場がないと、私のインターネットはさみしいものとなる。そんなことに、先日読みはじめた信濃川日出雄の[『日々書き描き』](https://kotosara.net/products/ktsr-005/)は気づかせてくれた。
消費しているだけでは、私はダメなのだった。どこかで生産していないと。
<center>・ ・ ・</center>
しかし、ここで面倒くさい性分が首をもたげてくる。生産するにも、それが利益活動になると興味がなくなってしまうのだ。私はとことん「お金を稼ぐ」ことが苦手らしい。それだけ価値の創造ができないということなのだろうが、義務教育時代から「仕事」に結びつくカリキュラムに興味を持つことができなかったのだから、仕方ない。
私がわくわくするのは、自分のお金や労力を使って、金銭的見返りのないことをする時だ。あのオランダの碩学はこう述べた。
>けれども、遊びを認めることによって、われわれは欲すると否とにかかわらず、精神というものを認めることになる。というのは、その本質がどういう点にあるにもせよ、遊びとは単にある本質を成り立たせている素材というだけのものではないからである。すでに動物の世界でさえ、遊びは肉体的存在の限界を突き破っている。世界は純粋なもろもろの力の作用によって決定されているとする見方からすれば、遊びとは、言葉の全き意味で過剰なもの、余計なものにすぎないだろう。だが、そういう絶対的決定論をのりこえた精神がそこに流れ込むことによって、はじめて遊びの存在ということが可能になる。つまり、われわれがそれを考えたり、理解したりすることができるようになるのだ。遊びというものが現にあるということが、宇宙のなかでわれわれ人間が占めている位置の超論理的な性格を、絶えず幾度となく証明する理由になっているのであり、しかもこの場合、それが最高の意味での証明でさえある。動物は遊ぶことができる。だからこそ動物は、もはや単なるメカニズム以上の存在である。われわれは遊びもするし、それと同時に、自分が遊んでいることを知ってもいる。だからこそわれわれは、単なる理性的存在以上のものである。なぜなら、結局、遊びが非理性的なものだからである。[^ks99]
現代は資本主義が過剰包摂と言えるほど、人間のほとんどの領域を覆い尽くしている。恋愛、結婚、出会い、妊娠、どこにでも市場ができる。それが悪いとは言わない。それによって得られる多数の利益があることは、人類が増え、全体的に長命化していることからも明らかだ。
しかし、満ちない。わくわくしない。もっと、楽しいことがしたい。そう、ホイジンガが述べたような、「言葉の全き意味で過剰な」こと、絶対的決定論をはねつける超論理的なもの。「遊び」だ。
かつてのインターネットにはそのような運営者の超論理的欲求によって産み出された遊びの産物がたくさんあった。持ち出しで運営される個人サイト、利益を度外視したサービス。Fediverseは遊びの空間だから素晴らしい。サービス開発者やサーバー運営者の利潤動機では理解できない「遊び」が、そこかしこに溢れている。
では私はどうか。
私だって遊びたい。ホイジンガ先生、私だってホモ・サピエンスという理性的で窮屈でうんざりする存在から抜け出して、たまにはホモ・ルーデンスとなりたいのだ。
そんな欲求から、このサイトができた。アクセス解析もしておらず、アフィリエイトも存在しないこのサイトでは、ドメイン更新料、Obsidian Publish使用料は回収しようがない。
だから楽しい。だからこそ「遊び」となる。理性は非理性とともに運動する。
よろしくお付き合いくださると幸甚である。
[^ks99]:ヨハン・ホイジンガ, 1973,『ホモ・ルーデンス』 高橋英夫訳, 中央公論新社, 20-21.