<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-10-9<br>更新日: 2025-10-9 </span></p> # ふたつのつよさ 「もっと強くなりたい」と、人は時おり口にする。 自らの未熟さを自覚した時や、脆さ、甘さ、計画性のなさ、体力のなさ、それらの「欠損」に直面した時に、人はそう思うようだ。 心理学に自己効力感という概念がある。自分の生活を自分の意志で制御し、それらを使って生命を維持する力の感覚、と言い換えることもできるだろう。 東日本大震災の津波で、私たちの自己効力感は大きなダメージを負った。21世紀になっても、自然の強大な力の前では為す術もない人間の姿、自らの、他者の生活のコントロールを失い、外界に生命を左右される。まさしく、自己効力感とは対極にある「[他律](https://kotobank.jp/word/%E4%BB%96%E5%BE%8B-563286)」が現前する姿である。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; そのような他律に直面した時に、人は強さを欲する。海岸に過剰なほど高く新設された防波堤、災害に対する日々の備え、また知識や組織などを人は欲し、それらを実現する。ある種の「足していく」強さだ。今よりも明日、明日よりも明後日はもっと強くなろう。生活をコントロールできるようになろう。強くなろう。 さて、その一つ目の強さは、確かに尊い強さだ。人が不条理に直面してその強さへの希求を発揮してこなかったら、人類の歴史はすでに終わっていただろう。 しかし、強さとはそれだけだろうか。それが強さの全てだとすると、その強さを凌駕する力にまた打ちのめされる時は「敗北」なのだろうか。地震そのものの話ではない、これは「死」の話だ。 &#13;&#10; &#13;&#10; もう一つの強さがある。それを私は強さではなく「つよさ」と表記している。 それは、自らの自律(コントロール)をはるかに越える他律に直面してもなお、ほがらかさや希望ややさしさといった、柔らかさを失わないつよさのことだ。 [コルベ神父](https://kolbe-museum.com/?mode=f2)はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、同胞の身代わりとなって餓死室に入り、そこで死んだ。彼は餓死室に入れられた他の囚人と共に、静かに祈り、讃美歌を歌っていた。発狂もせずに。 そのつよさは、最後は毒薬によって断たれることになる。毒薬という他律によって、コルベ神父の生命という自律は奪われた。それは敗北だろうか。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; 私たちはコルベ神父のようになることはできないだろう。それは聖人の領域だからだ。実際、彼は教皇により列福されている。 しかし、このような「自分ではどうにもならないこと」に直面した時、孤独な詛いの言葉を叫ぶでなく、他者と共に時間を過ごし、自らにあたえられた人間性を発揮する局面は、私たちにもあるだろう。 職場の後輩の愚痴を聴く時間、誰かと励まし合いながら共に不正に対して闘いを挑む時、家族の休養を優先して自分が家事をこなす時、遠い友人のチャレンジを見守る時、私たちは強さだけではなく「つよさ」も発揮するのではないか。 それらの物事の「結果」を、私たちは完全にはコントロールできない。しかし、パニックになるでも周囲を意味もなく攻撃するでもなく、やるべきことをやるべきように取り組むとき、私たちは「強さ」とはニュアンスの違う「つよさ」を発揮しているのではないか。 &#13;&#10; &#13;&#10; 私も、つよくありたいと思う。しかし、それは状況を支配しコントロールする「強さ」というよりも、状況に寄り添いながら、ささやかだができることを探す「つよさ」のほうを求める。 どのようにすれば、それが獲得できるのだろうか。コルベ神父なら「祈ることによって」と表現するだろう。 では、私ならどう表現するか。私なら「生活を生きることによって」と表現しようか。もうすこし思想的に気障に「生命を生きることによって」とでも言おうか。 なんと言おうとも良いが、明日の生活の中でなにができるのか。そんなことを夜は時に考える。