<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-10-23<br>更新日: 2025-10-23 </span></p> # 不愉快を生きるということ ネガティブ・ケイパビリティについて書いてみよう。もともとはキーツが記述した概念だが、昨今また話題になっている。いくつかの本も出版されている。 しかし、私はそれらのテキストをフォローしていない。今回、私がネガティブケイパビリティの語で念頭に置くのは、下記の概念とする。 &#13;&#10; &#13;&#10; [PHP人材開発「ネガティブ・ケイパビリティとは? その意義と活かし方を解説」](https://hrd.php.co.jp/hr-strategy/hrm/post-1362.php) &#13;&#10; &#13;&#10; 読むと、現代という不確実性を増す世界の中で、利益追求のために慎重に観察し行動する方法論、とまとめられるようだ。 ここに疑義がある。**ネガティブ・ケイパビリティは、そんなに良いものだろうか**。 確かに慎重な観察や、矛盾の受容、二律背反する定義や指示を受け入れる柔軟性は、なんらかの実践において重要な能力だ。山歩きでもそうだ、安易な反射的判断を抑制し、慎重に判断する……。 いや待て、そもそも、この状況は極めて不快な状況ではないか。もやもやとしたものと直面しながら、ネガティブ・ケイパビリティを発揮する。これは美談ではない。苦痛だ。このように苦痛をある種の能力的美談にしてしまうところに、PHPの短絡性と罪深さがあると感じるのは、私だけだろうか。 精神科医の故中井久夫は1985年の小論「精神健康の基準について」でこのように述べている。 &#13;&#10; &#13;&#10; >第六は、<u>即座に解決を求めないでおれる能力、未解決のまま保持できる能力</u>である。これは葛藤や矛盾に対する耐性の問題である。葛藤があることはすぐに精神健康の悪さに繋がらない。むしろ、ある程度の葛藤や矛盾、いや失意さえも人を生かす。しばしば患者の親が<ruby>矍鑠<rp>(</rp><rt> かくしゃく</rt><rp>)</rp></ruby> としていることがある。この能力は、かなり基本的な能力である。これがなければ、ある一つのことを話している間、別の話したいことをあたまの中で待機させられない。統合失調症の初期や躁病に見られる現象である。また、迂回できる能力、待てる能力とも関係する。“即時全面実現”を求めることは政治的スローガンでなければ統合失調症発病の危機が強まった状態である。 > 第七は、<u>一般にいやなことができる能力、不快にある程度耐える能力</u>である。回復過程において、働く能力が最後に出てくるのは、いやなことができる能力がかなりのゆとりが前提になる能力であることを意味している。この能力が早い時期に出たら、その人間は身体を壊すだろうから、自然はよくできている。いやなことは自然に後まわしにする能力、できたらやめておきたいと思う能力、ある程度で切り上げる能力も、関連能力で大事である。この一群の能力が境界例ではかなり特徴的に損なわれていないか。[^as8] &#13;&#10; これはネガティブケイパビリティの概念そのものだが、重要なのは、中井が強調するように、この能力が精神健康の基準の**第6,7番目**に位置していることだ[^s9]。つまり、ネガティブ・ケイパビリティ以前に重要な能力が5つもあることになる。 その5つの能力について、興味があれば[『「つながり」の精神病理』](https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093622/)を読んでほしい。ちくま学芸文庫から出ているので、安価で入手できるはずだ。図書館にもあるだろう。 &#13;&#10; &#13;&#10; ネガティブ・ケイパビリティは重要な能力だ、それに疑いは私もない。しかし、個人が幸福になるためには、それ以外のいくつもの要素が必要だ。なぜなら、ネガティブ・ケイパビリティは美談ではなく、不愉快を生きるためのある種「残酷な力」でもあるのだから。 中井が第1番目の能力として挙げる「分裂(splitting)する能力、そして分裂にある程度耐えうる能力」[^023j]はその代表例。いくらネガティブ・ケイパビリティが高くても、それを会社での仕事でばかり使っていては、幸福にはなれまい。 会社では会社用の顔を用意してほどほどにやり、ほどのどのネガティブケイパビリティを発揮する(発揮せず転職する自由だってある)。そして、仕事以外の時間で向き合うべき人生の課題により強度のネガティブケイパビリティを発揮する。そのようなやり方のほうが、私はわたしの周囲の多くの人にとって現実的ではないかと感じる。 ネガティブ・ケイパビリティだけ高く、他の精神的健康を保つ能力が低いままだったら、それは個人の心身健康にとって、危機的事態をひき起こすだろう。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; なぜ私が上記のようなことを言うかというと、PHPの記事を敷延していくならば「増大する不条理に向き合いつづけるという無限の精神的労働強度の上昇を、ネガティブ・ケイパビリティを用いて無限に受け入れる」という、企業にとっては都合のよい、労働者にとっては地獄絵図の図式が、どうしても頭に浮かんでしまうからだ[^ks9]。 私も20代の時に、そのような状況に落ち込み、それを自分の能力不足に原因を求め身体を壊したことがある。それはあまりにも、キーツの意図から外れるだろう。ロマン派詩人が、企業社会の利益を第一とするだろうか。いや、ない。彼の意図は明らかに企業活動に包括されない「真理」に向いている。 このような見方は、いささか穿ち過ぎの見方であることも承知している。世界は無数の悪意に満ちてはいない。むしろ善意の方が多いものであり、会社だってそうだ。従業員の幸福を願う企業は、たくさんある。 ただ、ネガティブ・ケイパビリティをこれから身につけようとする人には、どうか覚えてほしい。 ネガティブ・ケイパビリティを成立させるには、他の重要な能力がいくつも必要であり、ネガティブ・ケイパビリティ(だけ)が伸びないのは、あなたの忍耐力の問題ではなく、それら能力の複合的な成長・成熟度の問題でもあるということを。つまりは、人間の成長と同じく、時間も労力もかかるのだ。 それらの複合能力を事業目標というスピード感に影響されず、共にあせらず伸ばしていけるような、そのようなゆるやかな枠組みがあればいい。私はそう願っている。 [^as8]: 中井久夫, 2011, 『「つながり」の精神病理』 筑摩書房, 244-245. [^023j]: 中井, 2011, op. cit., 238. [^s9]: 中井はここで、重要なものから順に15個の規準を記している。15のうち6,7番目ということは、中ほどである。 [^ks9]: PHPの記事中のZ世代への言及は、そのような強いステレオタイプを有していないだろうか。意味不明な企業慣行や理不尽に対して「ネガティブ・ケイパビリティ」を発揮するよう促しているように、私は読めて仕方がない。