<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-12-25<br>更新日: 2025-12-25 </span></p> # 「宗教」と付き合うために大切なこと 現在の日本において、「宗教」と聞くと、なにか得体のしれない判断不能な恐ろしいイメージを想起する人も多い。しかし、人は価値や善悪の判断基準を持てないものと共存することは出来ない。 この「宗教をいかに価値判断するか」というテーマに関する投稿をMastodonで行ったところ、そこそこ注目されたために、詳しく書き記しておく。 --- ### 日本の現状 NHKのコラムを見てほしい。このようなグラフが掲載されている。 [研究員の視点 #188 日本人で宗教を信仰している人は何%? 増えてるの減ってるの?](https://www.nhk.or.jp/bunken-blog/500/367473.html) ![[religion01.png]] NHKの調査によると、「日本人」の仲で62%は信仰宗教なし、つまり「無宗教」ということになる。 無宗教の中にも様々な立場がある。レーニンらの史的唯物論のように、宗教を敵視するもの。不可知論者のように、控えめかつ積極的な疑義を提出する者。そもそも宗教に関心がない者、様々だ。 ![[religion03.png]] なんらかの信仰心の有無はこのようになっている。これを図①と③を見ると、信仰している宗教がある人も信仰心は持っていないケースがあることが理解できる。いわゆる「葬式仏教」などがそれに当たるだろう。 制度として檀家等に加入してはいるが、その宗派の信仰体系を受け入れているわけではないのだろう。 &#13;&#10; &#13;&#10; このNHKの調査から、本記事で強調したいことは、なんらかの宗教団体に所属している人でも、その団体の信仰体系を受け入れていないこともある、という事実だ。日本では、アニメや漫画の影響で「宗教団体に所属する=その団体の信仰体系に自らを一体化させている」という理解が散見されるが、それは事実とは異なる。 宗教とは、個人を組織という全体に画一化・同化するものではないことがグラフから理解できるだろう。<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">宗教・信仰といっても、その内容はさまざま</span>なのだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 多様な神概念 次は宗教の「神概念」を考察する。 上記グラフでも、日本では仏教徒が多いことがわかる。しかし、仏教も一つの体系をもつのではない。大乗仏教と上座部仏教では、その教義も根本から異なる。また大乗仏教でも宗派によって信仰体系は大きく異なる。 例えば、私が住む滋賀県北部は浄土真宗の影響が強い地域だ。私はお盆の精霊馬は、生まれてから今まで一度も見たことがない。浄土真宗の世界観においては、死者は極楽におり、この世に帰ってきたりしないためである。この点は他の諸大乗宗派とは差違が大きい点だろう。 キリスト教にしてもそうだ。 「最後の審判」や「地獄」などを強調する宗派も確かにあるが、私の教会でそのような話を一度も聞いたことはない。この点は拙記事[「信仰とは」](https://oryzivora.page/essay/2025/0420)に実例と共に明記しておいたので、ご参照を。 宗派によって、教義・教理・文化も様々である。ということは、宗派により信徒が抱く神(仏等)概念も様々だということだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; ある人は「神は父である」という。話を聞いていくと、父親のように厳しいが、導いてくれる存在だという。 ある人は「神は宇宙の法則である」という。聞くと、人格的な神ではなく、人間を越えた法則そのものだという。 ある人は「神は万物に宿る」という。聞くと、動植物や無機質にいたるまで、すべてに人格的神がいるという。 これらを精査していくと、様々な神概念を各個人が抱いていることが分かる。それは同じ教派、宗派にしてもそうだ。宗教は「同じ神を信じる」という建前を持っているが、よくよく見てみると、信徒それぞれの神概念はそれぞれ違い、また時期によっても変化している[^fasfa]。 誰かの葬式の時、誰かの出産の時、人生の苦難の時、喜びの時、それぞれ性質の違う神概念が現われるものだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; この点が、自らを「無宗教」とする日本人には理解しにくいようだ。生活の中で宗教と触れ合っていないのだから、それは仕方ない。 しかし、現代は様々な価値観が共存する時代である。そこで、宗教という大きな文化に対する価値判断というアプローチの手法が貧しいと、困る事態も起る。ここで、私が宗教者として、他の宗教者と関わる際のアプローチ手法(価値判断におけるポイント)を記して、読者の今後の文化理解の一助となるようにしたい。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 重要な3つのチェック項目 まず、オフライン・オンライン問わず目の前に宗教者がいたら、その人を「宗教」や「○○教」といった、自身がすでに持っているカテゴリーや概念に当てはめて理解するべきではない。それは巨大な集合概念であり、個々人はその中で様々な差違を持っている。 たとえば、あなたが海外で、同じく巨大な集合概念である「日本人」というステレオタイプで見られたらどう感じるだろうか。今月あったフィンランドのSNS投稿の事案を想起してほしい。 <span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">しかし、私たちは目の前の人が安全か危険か、共存できるか否か、判断しなければならない。</span>そこで私が見るのは、下記の3点である。 &#13;&#10; &#13;&#10; - **その人が「何を」信じているか** まずは、その人がどのような文化に立っているかをここでみる。 「イエス・キリスト」というなら、大まかにキリスト教だと理解できる。「アッラー」ならイスラム教だし、「阿弥陀仏」なら浄土系信仰だろう。「ダルマ」といわれれば上座部仏教だと大まかに理解できるし、危険なカルトの教祖の名前が挙がれば距離を取れる。 また、前述したように神の概念も様々だ。「裁きの神」を信じているのなら、なにかしらの切実さがあるのだろう。「現世利益の神」を信じているのなら、御利益を求めているのだろう。「他者を自らの信仰体系に無理にでも組み込むことにより救済する神」を信じているのなら、ちょっと距離を取った方がよさそうだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; - **その人がそれを「どのように」信じているか** 次は、「どのようにそれを信じているか」を見る。 実家が仏教で、なんとなく仏教徒であり、葬式の時に関わっているのなら、日本人の多くがとる「有神論的無宗教」[^rwr]だと理解できる。「洗礼を受け、毎週教会に行っている」のなら、積極的なクリスチャンだ。「何らかの伝道活動を行っている」のなら、信徒というより教団側の人なのだろう、神学も詳しそうだ。 上記のように、「どのように」信じているかでその人の信仰の熱量が分かる。その熱量を見て、今後の付き合いを判断することができる。 &#13;&#10; &#13;&#10; - **その人がその神概念と熱量に基づいて「何を行っているか」** その人がどのような実践を行っているか。これは私にとって最重要項目となる。 どんなカルト的な神概念でも、熱量でも、それがその人の内に留まっているならば、それは「内心の自由」に属する事柄だ。その人が自由に考える権利がある。しかし、行為となると別である。行為は社会性を持つ。 その人が自身の神概念や熱量に従って、社会的に評価される慈善活動や、信徒間の支え合いなどを実践しているのならば、私はその人を「信頼できる人」と判断するだろう。思いと行いにおいて、善きことをなそうと努力している人なのだ。 しかし、その人が反社会的な行いや、他者を無意味に裁いたり、周囲に犠牲を強いたりする行いをしていたのならば、その人の神概念がどれだけ素晴らしいものでも、私は「付き合うとロクでもないことになる」と判断し、距離を取るか無視するかする。それがお互いのためだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 適切な判断と共存のために 上記3点は私の判断基準である。個人のものだが、ある程度の普遍性はあると考えているので、参考にしてほしい。 私が上記3点を公開するのは、意味のない無理解を避けるためだ。 近代以降の日本、特に先の大戦後の日本は個人主義を採っている。法の主体の基本は「個人」であり、権利の主体も「個人」である。私たちはそのように教育を受けているし、そのように扱われることに慣れている。 そこで相手を「○○村の人間だから、お前は○○な性格に違いない」と判断したり、「○○(性別)は○○すべきだ」と主張すると、それは個人主義に反するとして批判される。それは、宗教に対しても同様のはずだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; つまり、目の前に何らかの信仰者がいたら、その人を「宗教」や「○○教」といった、自身がすでに持っているカテゴリーや概念に当てはめて理解するのではなく、目の前の人が「何をどのように信じ、何を行なっているのか」を見るべきなのだ。そうでないと、双方の齟齬は確執となり、争いに発展する可能性が高くなるだろう。 <span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">最初から「宗教団体に属する者は、個人を集団に捧げた集団主義者だ」という固定観念で相手に戦争を挑むのではなく、まずその個人の思いと行いを見た上で、その人と付き合うか、距離をとるか、はたまた批判するかなどを判断すればよい</span>のである。それが健全な近代的個人主義だ。 &#13;&#10; &#13;&#10; しかし、NHKのグラフで見たように現代は「信仰宗教なし」の人が6割を超える社会だ。そこでは、どのように「信仰」というものの健全性や共存可能性を判断すればいいのか、その判断基準の教育を受けていないことも多いだろう。その教育は、学校教育ではきないので、家庭や地域などの市民社会で行われる教育である。 そこで、市民社会における宗教に対する健全な判断基準を各個人が持つ手助けになればと、この記事を書いた。 また、信仰者は思いと行いを社会から見られていることを自覚し、何が健全な信仰なのかを常に自らに、教団に問いつづける必要もある。私たちの神概念や熱量は行動へ繋がり、その行いを見て社会や周囲は私たちの健全性を判断する。 行いにおいて友愛や寛容や謙遜や平等を実現できない信仰は、社会から厳しく批判されるだろう。厳しいかもしれないが、それが市民社会である。 今回の記事が、市民社会の健全性を担保する一助となることを願っている。 [^rwr]: 著者の造語である。 [^fasfa]: 著者の神概念は下記記事で明記した。<br>[不完全の神学への試論](https://oryzivora.page/treatises/2025/1101)