<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-1-30<br>更新日: 2026-2-10 </span></p> # ゆったりとした展望 ### ニヒリズムの時代 [[今の情勢への雑感などなど|前回の雑記]]では、希望のないような話を書いた。今回は、その状況で私がやろうとしていることにポイントを置いて、記事を書いてみようと思う。 宗教学者の島田裕巳が、このようなnote記事を公開した。 [宗教はなぜ衰退し、世界はどこへ向かうのか?―創価学会の興亡から、エマニュエル・トッドの「宗教ゼロ」社会まで](https://note.com/nice_tulip662/n/n11b5a19d703c) ここで島田は以下のように述べる。 &#13;&#10; &#13;&#10; >共通の物語と道徳基盤を失った個人は、バラバラに切り離されます。後に残るのは、高度に自動化された資本主義システムと、孤独な個人だけ。 それは、私がかつて著書『宗教消滅』で指摘したように、資本主義が宗教(=共同体)と心中し、「人間」という存在すら不要とされる世界への入り口なのかもしれません。 私たちは今、神々が去り、教会が売り払われた後に広がる「ニヒリズムの荒野」に立たされています。そこで人間はどう生きるのか、それが今問われているのです。[^fasda] &#13;&#10; この見解には、私も賛成である。現代はニーチェが述べた「ニヒリズムの2世紀」であり、価値消滅が突き進むという彼の予言は正鵠を射ている。 ### 歴史の意味性、デモクラシー 私の歴史認識は、20世紀アメリカのプロテスタント神学者、ラインホールド・ニーバーに強く影響を受けている。 ニーバーはギフォード講義をまとめた主著『人間の本性』で人間の持つ個人性を前提とした歴史性について、このように主張する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >個人性の概念と現実は両者とも、キリスト教信仰の特徴的な産物である。なぜなら、個人が歴史の内にも外にも同時に立ちうるのは、このキリスト教信仰の範囲内においてのみだからである。個人は、歴史には意味があることをその信仰が認めるゆえに歴史の外に立つ。そして、歴史は永遠なる意志によって支えられていることをその信仰が主張するゆえに歴史の外に立つ。[^fa090] &#13;&#10; つまり、人間とは歴史の内にも外にも、同時に立つ存在だということだ。 歴史の内に立つ人間は、現実の出来事に直面し、翻弄され、取り組み、具体的に何かを生み出し、失っていく存在だ。そこには様々な格闘があるが、歴史という大きな総体が人間に先行している。 一方、人間が歴史の外に立つということは、眼前の歴史を眼差し、それを超越者(神)との関係で捉え、その出来事や流れに意味を見つけ出す営みのことだ。そこには、眼前の歴史を超越した視座があり、歴史に先行する人間の自由がある。 それは受動的ニヒリズムとは全く異なる、自らを歴史の中に投機していく主体としての個人の姿だ。 ニーバーはプロテスタント新正統主義の神学者として、偏狭にキリスト教の優位性を強調している。しかし、イスラーム教が広く世界に紹介され、オリエンタリズムのヴェールを取り去られた今は、その偏狭さは否定されるべきである[^da9s]。 しかし同時に、この神という超越と人間との関係の上で、歴史に意味が生まれることは、普遍的な事柄でもある。 &#13;&#10; &#13;&#10; ニーバーはデモクラシー擁護を行う神学者として有名だ。彼の神学は、アメリカのプロテスタント神学として、国政に影響を与えてきた。では、彼の言う「デモクラシー」とは何か。 &#13;&#10; &#13;&#10; >宗教的謙遜は、デモクラシー社会の前提と完全に合致している。深遠な宗教は、神の尊厳と人間の被造物たる身分との間の相違、すなわち、神の無条件的特性と、あらゆる人間の事業の条件づけられた特性との間のちがいを認めなくてはならない。キリスト教の信仰に従えば、あらゆる人間の事業が条件づけられたものであり、有限的な特性をもつものであることをかくそうとするプライドこそ罪の真髄そのものである。それ故に宗教信仰は絶えざる謙遜の泉でなくてはならない。なぜなら、宗教信仰は、人間に生来のプライドを抑制することを教え、また、彼らが如何に究極の真理を語ろうとも、結局それは相対性の限界を出ないものであることを適度に自覚させるものでなくてはならないからである。彼らの信ずる宗教が、最も高尚な真理について語る時においてもなお、その中にしのび込んで来る誤りと罪、有限性と偶然性の要素を認めるものであるならば、彼らの宗教は最も確実に真実な宗教であることを彼ら信徒に教えるものでなくてはならない。[^989s89] &#13;&#10; ニーバーは「デモクラシー」を無謬のものだとは考えない。人間がそれを構成する以上、常にそれは誤りを免れえない。彼のデモクラシーは、上記のような人間の不完全性を前提とした歴史の意味をめぐる対話と協働の仕組みである。 ### なにを目指すのか さて、私もデモクラシーの仕組みを重要視している。そしてニーバーと同じく、私もデモクラシーを最高のものだと考えてはいない。むしろ、宗教者としてはイスラーム教における「イスラームの家」でのシャリーアの支配に共感と羨望を覚える。 明らかに「デモクラシー」は唯一絶対の仕組みではなく、それに代わる優れたものも存在する。 同時に、人間は無から有を作ることはできない。私たちの眼前には、国連に代表されるような「平等」や「自由」といった、西欧発の「民主主義」の残骸がある。常任理事国制度を見ればわかるように、その旧来の国際秩序の仕組みは、成り立ちにおいて矛盾と虚偽が土台となっていた。私たちの生活は、グローバルサウスに負担と矛盾を押しつける「先進国」の強権の上に成り立っている。 しかし、だからといって「現行の秩序は完全に無意味である」と、何らかの原理主義を掲げるのは間違っている。ここで、ノイラートの船を思い起こしてほしい。 &#13;&#10; &#13;&#10; >我々は大海原で自分たちの船を大規模修理しなければならない船員のようなものである。しかし、船底の部分から新規に作り直すことはできない。梁が一本取り除かれたなら、すぐにそこに新しい梁を置き換えなければならず、そのために船の別の部分が梁として使われる。このようにして、古い梁と流木を使うことで、船は完全に新しい形に作り変えることが可能だが、それは段階的な再建によってしか実現できない。[^ewew42] &#13;&#10; 私はデカルト的基礎付け主義を否定する立場の哲学者であり、実践論もノイラートの船の認識論の上に立っている。目の前にあるものを使いながら、私たちもやっていくしかない。無理やり船ごと取り換えようとするのは、無謀であり、また危険である。 日本の私たちは、「民主主義領域国民国家日本国」という破綻した概念の中から、最良のものを選り分け、使用し、その上で新しいものを求めてゆく必要がある。私にとってその「最良のもの」とは、ニーバーの言う意味における「デモクラシー」である。 &#13;&#10; &#13;&#10; ニーバーの言うとおり、私たちはあまりにも多くのことを知らず、知恵を持たない存在だ。啓典宗教の一神教を前提にしなくとも、その点は多くの人にも分かることだ。職場や学校を見てみれば良いのだ。 故にこそ、私たちは共に、歴史の中だけではなく外にも立脚しなければならない。そこでないと、歴史に意味が発見できず、次に行うべきことが見つからないからだ。デモクラシーは、その境位があってはじめて機能する。 『夜と霧』で有名な精神科医V.E.フランクルの言うとおり、私たちは「意味のない苦痛に耐えることはできない」。私たちは意味のない事柄を土台に、苦痛を伴う実践を構想することはできない。 そのような意味を巡る対話の営みを、今後は様々な人と行っていく予定だ。 神の似姿としての人間の尊厳、それは日常性に埋没しきることなく、その知と力をもって「何故か」を問い、世界を超えた地平に眼差しを向けることにあるだろう。 &#13;&#10; &#13;&#10; >われわれの喩えによれば、自己は一つの高い塔であるが、それは、それが「何であるか」を眺めて理解するだけでなく、世界を超えたところに目をやってそれが「何故か」を探求するのである。前者は後者に手掛かりを与えることができるが、「何故か」に関する最終的解答を与えることはできない。[^a32ew] &#13;&#10; この「意味の土台」の上でこそ、私たちは「何をしたいのか、何ができるか、何をすべきか」という実践の問いを、自他に問うことができる。ゆえに、人は何らかの超越性を得なければならない。それが神であれ、思想であれ、文化であれ、なんであれ。 冒頭で引用した島田の問い「私たちは今、神々が去り、教会が売り払われた後に広がる『ニヒリズムの荒野』に立たされています。そこで人間はどう生きるのか、それが今問われているのです。」に対しては「何故なのか、何をしたいのか、何ができるか、何をすべきか」を問う意味と実践を巡る人の営みによって、解答が与えられるだろう。 [^fasda]: 島田裕巳, 2025, 「宗教はなぜ衰退し、世界はどこへ向かうのか?」, 島田裕巳note , (2026年1月29日取得, https://note.com/nice_tulip662/n/n11b5a19d703c). [^fa090]: ラインホールド・ニーバー, 2019, 『人間の本性』 髙橋義文・柳田洋之訳, 聖学院大学出版会, 98. [^da9s]: この点を詳しく知りたければ下記著作を参照のこと。<br>中田考, 2016, 『イスラームの論理』 筑摩書房. [^989s89]: ラインホールド・ニーバー, 1994, 『光の子と闇の子』 武田清子訳, 聖学院大学出版会, 136. [^ewew42]: Wikipedia, 2026, 「ノイラートの舟」, (2026年1月30日取得, https://w.wiki/HesU). [^a32ew]: ニーバー, 2019, op. cit., 340.