<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-5<br>更新日: 2026-2-7
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# 選挙の絶対化と安易な絶望
ニュージーランドのガメ・オベールことジェームズ・フィッツロイ氏によるXについての、このような記事を読んだ。ちなみにフィッツロイは青土社から[このような本](https://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3521)も出しているブロガー/エッセイストである。
[初心者のためのSNS民主主義講座 選挙篇](https://substack.com/home/post/p-186920023)
フィッツロイの記事は示唆に富むので、私も愛読している次第。今回はこの記事をベースに、目の前に迫った衆院選について考えてみたい。
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### 参院選について
私は[[今の情勢への雑感などなど|以前の記事]]で、日本は急速に衆愚政治に向かっており、その流れは止めようがないという見解を表明した。この点、現在も私はそう考えている。
衆愚政治の特徴は、フィッツロイの記事にもあるとおりだ。
>まず、公共圏が「討議」から「動員」へと質的にすり替えられている。
>
すなわち、
>
1 争点が政策の比較ではなく、敵味方の識別(忠誠テスト)になる。
>
2 「何が真か」より「誰が言ったか」「誰の側か」が重要な判断のもとになって、ad hominem(←発言者の人格・属性・立場などを攻撃すること)で、主張を否定しようとする論法が議論の内容よりも、個人の人格そのものに集中する。
>
最近の事件でいえば伊藤詩織さんに対する、一見、異なる理由付けが行われている攻撃などが判りやすい事例になるかも知れません。
>
政治家の評価基準が、政策よりも可視性(バズ)に最適化されて、アテンション政治に変質して、「地味だが重要な政策」(外交の長期戦略、制度設計、再分配)は問題にされなくなる。
>
こっちは石破茂さんのたどった命運を高市早苗さんとの相違において思い出せば十分でしょう。
>
……
>
論理的帰結として、こういう社会では、反証可能性が消滅して、「どれだけ否定されても、嘘がばれても、生きて残ってゆく物語」が最強の政治的資源になっています。[^faw3]
これまでの社会が前提としてきた社会的客観性や倫理などが崩壊し、個人や集団がエゴイズムに基づいて政治的行動を行う。これが衆愚政治である。
というわけで、今回の衆院選の結果もひどいものになるし、今後の選挙も同じくひどいものになっていくと予想している。
こういう状況に対し「絶望した」などと反応する方が一定数おられるが、私は全く絶望などしていない。そもそも、選挙に有効性の仮定も期待もしていないので、絶望のしようがない。
では、なぜ期待していないのか。それは、私は間接民主制における「選挙」を民主主義の土台と位置づけていないからである。
### 民主主義の土台
現在の社会情勢の分析については、私もフィッツロイ氏と意見を同じくしている。この国が戦後にGHQから与えられた「民主主義」というものは、すでに土台が崩壊している。
>民主主義において、多数決は数学でいう「必要条件」にしかすぎず、次のような必須条件、すなわち、
>
1 共通の常識(事実とみなせる土台)
>
2 自分への反対者への正統性の承認
>
3 説得および妥協の経絡
>
4 政治学や社会学でよく使われる概念としての「中間組織」、すなわち個人(市民)と国家(政府・議会)のあいだに介在する組織
>
5 制度への信頼
>
がなければ機能しない。
>
目下はSNSによって、すべての条件が小気味よいくらい破壊されて、機能していないどころか、再建の手がかりさえない状態です。[^faw3]
市民社会にある様々な個人やアソシエーション等が上記の前提を構築し、その上に国政が立脚することにより機能したのが「戦後民主主義」である。
その仕組みは、甚だ脆く欺瞞に満ちたものであったが、いちおう市民に「日本は民主主義国家である」と自認させることはできた。
しかし、現在は社会が市民にそのような自認を与えることすらできない。人間は愚かだが馬鹿ではない。「戦後民主主義」と言われるシステムの土台が崩壊していることは、多くの人が明確ではなくとも理解している。しかし、自分たちは戦後レジームを前提とした「戦後民主主義」しか知らない。それで多くの人が未来への閉塞感を感じ、「絶望した」などというのだろう。
だが、それは近代の絶対化にすぎない。日本で間接民主制にもとづく議会制と選挙制度がはじまったのは1890年だが、たかだか130年ほどの歴史しかない制度が機能不全を起こしたところで、「もう終わりだ」と考えるのは、近代の盲信である。
人類は130年どころではない歴史を生きており、そこでは「選挙」などなくとも歴史を紡いできた。近代、もしくは戦後のシステムだけが「歴史」であり、後は暗黒の時代だったとでもいうのだろうか。それはあまりに近視眼的であり、現代人の思い上がりだろう。
同時に、民主主義が機能不全になったのなら、選挙における投票などより、その土台の再建が急務であるはずだ。<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">なぜならば、選挙や議会というシステムは、前述の民主主義の土台の上で機能する一つの道具でしかない</span>のだから。土台がなければ、選挙という機能も形骸化することを避けられない。
私は[ノイラートの船の比喩](https://w.wiki/HesU)をよく使う。現在はこれまで運行を続けてきた大型客船の船底に大穴が開いており、水が浸入してきている状態だ。それなのに、船長室での晩餐会のマナーがどうこう言っていてもしかたないではないか。まずは大穴の補修をすべきだろう。
土台再建のためにやるべきことは、選挙以外に様々に山積みのはずだ。それを無視して「絶望」するのは、いかがなものだろうか。
フィッツロイ氏が述べるような民主制の前提を、かつてとは違った形で新たに再構築することは可能である。
しかしそれには、たかだか130年しかない間接民主制の歴史に閉じこもるのではなく、文明の再編という広く長い視野で日本や国際社会を眺めなければならないと私は考えている。
そこで、当サイトでは[[ゆったりとした展望|このような記事]]とともに、「領域国民国家」という呪縛から逃れて文明を考えるための[[宗教理解への入門書紹介|参考資料]]を提供しているので、ぜひ参考にしてほしい。これが私の「やるべきこと」の一つである[^dafdfga]。
やれること・やるべきことを見ずに「絶望」なる自閉性に閉じこもるのは、ひどいエゴイズムだ。開かれた未来にむかう姿勢と実践こそ、これからの衆愚政治の社会を生き抜く基礎スキルとなるだろう。
### アウトレイジ・エコノミーについて
最後に蛇足を。
私はフィッツロイの「アウトレイジ・エコノミー」という言葉に大笑いした。言い得て妙である。
>一般に、極端で誇張されたものほどSNS空間で伝播する力が強いのは、こちらは「アウトレイジ・エコノミー」といって、デマや陰謀論ほど伝播コストが低いことを聞き知っている人も多いはずです。[^faw3]
SNSの自称リベラル勢の多くも、民主主義の土台再建をせず、自分たちの許容できない政治勢力に対する怨嗟と怒りの声をSNS空間に反響させるアウトレイジ・エコノミーを繰り広げており、その意味で「民主主義の前提」破壊の片棒を担いでいることは指摘しておきたい。
[^faw3]: ガメ・オベール, 2026, 「初心者のためのSNS民主主義講座 選挙篇」, ガメ・オベール JamesJames, (2026年2月5日取得, https://substack.com/@gamayauber007/p-186920023).
[^dafdfga]: 私自身は「戦後民主主義」の復興には関心がない。現在のように戦後レジームが崩壊している国際情勢で、そのような亡霊を再建しても、意味はないと考えているためである。私はキリスト者として、イスラームに学び、領域国民国家を否定する重層的普遍主義の実現を目指している。詳しくは下記論文を参照。<br>レジェプ・センテュルク, 2011, 「多様性の中における統一 : 開かれた文明としてのイスラーム」『一神教学際研究』(7): 53-66, ( https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/580/files/r001000070007.pdf ).