<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-19<br>更新日: 2026-2-19 </span></p> # 過去と未来へのアクセス 「どうしても歴史などが暗記物になってしまう」という悩みを見かけることがある。なぜそうなるのか、私見を述べておくのも有用だろうと思うので、書いておく。 ### 記述文と規範文 言語にはいくつかの形式がある。ここでは記述文と規範文を取り扱う。 記述文は「○○は××である」という事実命題を記述する文だ。「あの鳥は白い」や「私は人間だ」など、事実を記述する。 一方、規範文は「○○は××でなけれなならない/あってはならない」という、当為命題を記述する文である。「法律は守らなければならない」や「危険は避けなければならない」など。理由を前提として、何らかの規範を主張する。 これらの文の土台の上で様々な願望文や疑問文などが構築される。 さて、この視点から見ると、「歴史」や「思想」とは何だろうか。 ### 規範文の交錯 政治や思想の記録や文章を読むと、様々な規範文が交錯していることが分かる。「汝、殺してはならない」という文言や「王権は神聖で不可侵である」や「資本主義は共産主義に移行しなければならない」などなどなど。 歴史は記述文よりも、規範文が入り乱れた過去の蓄積である。それらが対立し、論争し、同調し、合意し、妥協し、前提し合い、複雑系を成している。 ゆえに、歴史には、自らの中に何らかの価値形態がないとアクセスできない。価値体系を記述文で無理やりに描こうとすると、統一模試のテスト文になる。 アメリカ独立戦争は何年に始まりましたか?答えは1775年だが、その答えの中に歴史の意味は存在しない。ゆえに、自らとの関連を意識することもできない。疑問が生じることもない。新たな問いも立てられない。 過去や未来といった四次元の形式に記述文だけで自由にアクセスしようとするのは、科学主義の乱用では?と感じる。 例えば、世界の各宗教(文明)は「未来」という定位にアクセスするために、終末論や復活、輪廻という規範文を使った概念を使った。「過去」という定位にアクセスするために、創造論を発達させた。 それを科学主義的記述文で「非科学的だ」として、なにかが分かった気になるのは、大変恥ずかしい行為である。 ### 自らの規範文をつくる なので、哲学専攻に入った学生がまずやるのは、どんなにショボくてもいいから、まずは自分の価値体系を作り、言明することだった。それは規範文の言明である。 「これについて、私はこうであるべきように考える」「この解釈は訂正されなければならない」などなど。 それを、研究会や読書会やゼミなどで発表する。それを先輩などからボコボコにされたり、褒められたり、それに基づいて行動して大失敗したりして、20代のうちに歴史センスを養うのが人文知のあり方の一つだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; ガダマーの解釈学的転回を援用するまでもなく、知とはそういった否定と肯定が入り乱れた営みである。そのような自己否定の中での自己忘却を経ないと、自らの規範文を作ることはできない。 泥臭い営みに見えるだろうが、歴史理解の基本はその営みの繰り返しである。なぜなら、人間の歴史そのものが記述文で一直線に描けるものではなく、規範文が重層的に様々なバタフライ効果を起こし合う、意味の場であるからだ。