<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-21<br>更新日: 2026-2-22
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# アナキズムについて
>グレーバーとかネグリ=ハートとか、国家否定まではわかんだけど、その後は抽象的な人間概念でなんかもやーっと社会を作れるとするきらいがあるので、その点薄っぺらいなぁ、と感じています。
>
>宗教家としては、文明の歴史というもは捨象してしまうのが、もったいないというか空想的というか。[^dagagas]
今日はこのような投稿をした。Fediverseの民から松村圭一郎『[くらしのアナキズム](https://mishimasha.com/books/9784909394576/)』を紹介していただき、グレーバーのアナキズム論やモースの贈与論に触れた時に抱いた感想だ。この点について、もう少し説明しておこうと思う。
### 啓示一神教の立場から見たアナキズムとの共存
なぜ私が「薄っぺらい」と感じるのか。それは私が啓示一神教の立場に立っているからだ。
啓示一神教では人間を自由意志を持つ存在とせず、常に神の前で倫理性を問われる存在として規定する[^fss]。
ここで重要になるのは、それぞれ実定宗教としては、ユダヤ教では神の律法の遵守であり、キリスト教ではイエスという言葉(ロゴス)に従うことであり、イスラームではクルアーンとハディースという啓示を通して神に仕えるということだ。
その態度はどれも「いかに神に仕えるか」という姿勢を共有している。自由意志を前提とした交換などで社会形成をするという発想は、極めて稀薄である。
つまり、人間の意志に基づく贈与等の社会関係以前に、神の法が先行することが啓示一神教の特徴である。この理解はモースやグレーバーのアナキズム論に1000年以上先行しており、その文明性・歴史性において「薄っぺらく見える」ということだ。
そして私の立場は、アナキストの側から見るとあまりにも「支配的」に見えることも承知している。
同時に、「現在から未来」という視点で考えると、人における神の法もアナキズムの原則も、共に「現在」という境位にたち、それぞれの原理から次の現在(未来)をむかえるという意味において等価である。その点に置いて、私はアナキストたちとも共存可能であるし、共存していきたいと考えている。過去・現在・未来を完全に俯瞰できるのは、神のみだからだ。
その共存は、お互いの一致する見解、つまり領域国民国家の否定と古くて新しい社会形態の構想という点を一致点とするだろう。その点で、協働も相互理解も友情も可能であると信じる。
### 神学的問題
同時に、啓示一神教の立場からすると「アナキストは神の法を否定する点に置いて背教者であり、その点で断罪されるべきではないのか」という疑問は当然に自己の内面において提出される。
その点、私も長らく悩み、祈り、考えた。現在はイスラーム教スンナ派アシュアリー学派の学説を採用することで、私と神との関係上の解答としている。中田考の論文から、アシュアリー派の教説を引用する。ここで問題となっているのは、異教徒・無神論者の救済である。
>ムハンマドの宣教以降についての「ムハンマドのウンマ」を越えた救済の可能性をめぐっては、アシュアリー派神学が、3つのカテゴリーについてそれを認めている。
>第1は、イスラームの宣教が届いていない者で考察によって自力で唯一神崇拝に辿り着いた者である。このカテゴリーに属する者は「広義の」ムスリムと認められる場合もあり、その救済については、同派の中に異論は存在しない。
>第2は、イスラームの宣教が届かなかったために宗教に無関心に生きて死んだ者である。後期アシュアリー派の通説では、彼らは救済に与る。
>第3は、イスラームの宣教が届かず積極的「無神論者」として確信犯的に神を拒絶して死んだ者である。彼らの救済については同派の中でも見解が分かれるが、救済説も有力である。
>以上に概観した通り、異教徒に救済の可能性が開かれていることは、何世紀にも亘る長い議論の末に、反対説と並んで、スンナ派の「正統」神学の一つアシュアリー派の「学説」として承認されており、「学説」として自由な議論の対象となる。[^fala]
現代は末法の世である。国家と貨幣という偶像が世界を支配し、人は内面や超越を思索する時間もリソースも奪われている。そのような時代において、積極的無神論をとらず、神に対して無関心な人の内面に対して、私も後期アシュアリー派の学説に基づいて立ち入ることはない(実質的な宣教未達状態であると考える)。
その救いの大権は、神のものである。よって、アナキズムの立場の人とも、自己の神学上、問題なく共存・協働可能である[^d3242]。
ここで出てくる問題は、キリスト教徒がイスラーム教の学説を援用することの正当性である。それについて、私はマルコ福音書の立場に立ち、イエスの告げられた「神の支配」はシャリーアによって実現されると理解する立場にいることを言明することで、その解答としたい。
[^dagagas]: うえの, 2026, (2026年2月21日取得, https://fedibird.com/@utan/116106737996684754).
[^fss]: ヘブル語聖書「創世記」においての楽園追放を自由意志の獲得として論ずる後代の神学もあるが、当該箇所に描かれているのは「神のように善悪を知る者となる」(3:5)実を食べたことである。善悪の判断可能性は、前提を超越した自由意志の根拠とはならない。
[^fala]: 中田考, 2008, 「救済の境界 : イスラームにおける異教徒の救済」『一神教学際研究』(2): 63-77, ( https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/63 ).
[^d3242]: ただし、史的唯物論者やS.ピンカー等のように、積極的/戦闘的無神論を「公言」されるなら話は別である。私は、そのような立場とは相容れないので、こちらも対話をせず可能な限り距離を取る。その立場を「公言」せず、内面で考えているぶんには、内面もまた神の主権しか及ばない領域なので、私は詮索も言及もしない。