<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-24<br>更新日: 2026-2-24
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# 法と人間
啓示一神教では「自然物はすべて神を賛美している」という世界観がある。
>**ヘブル語聖書 詩篇147(148)**
>地からヤハウェをほめたたえよ、竜とすべての淵よ
火と雹よ、雪と霧
み言葉を行なう暴風よ
山々とすべての丘
果樹とすべての香柏よ
野獣とすべての家畜
這うものと翼ある鳥よ
地の王とすべての君侯
司たちとすべての地の裁き人らよ
若き男、若き女も、老いたるも若きもともに
ヤハウェのみ名をほめたたうべきである。
げにそのみ名のみ高く、その栄光は地と天の上にある。[^fasfas]
>**クルアーン 夜行章**(17:44)
>七つの天と地、そしてそられのうちにある者が彼に賛美を捧げる。まことに、どんなものでも、彼への賞讃と共に彼の超越を称え奉らないものはない。だが、おまえたちは、彼らの賛美を理解しない。まことに、彼は寛容にしてよく赦す御方。[^gagas]
自然物は神を賛美している。神の意志に背くことなく。人間のみが神の前で善悪を判断し、倫理を問われる存在として描かれる。
>**クルアーン 部族連合章**(33:72)
>まことに、われらは諸天と地と山々に信託を提示したが、それら(天地、山々)はそれを担うことを拒み、それに対して怯んだが、人間がそれを担った。まことに、彼は不正で無知な者であった。[^faw23]
ここでの「信託」とは、神の意志に従うのではなく、存在物自らが善悪を判断するという責任である。地や山などの自然物はそれに対して怯んだが、人間はその判断者としての自己を引き受けた。それゆえ、人間は神から不正で無知であるとされる。
このような啓示を、「時代錯誤である」として除けることは現代日本ではたやすいだろう。実際に、ほとんどの人はこのような世界観をもって生きてはいない。人間は自由意志を持ち、神に倫理的責任を負わない者として自覚のあるなし問わず前提されいることが多い。
### 呪う者
上記のような現代の人間観を受け入れながら、生きていくことは可能だ。理性によって状況を切り開く人間、自律的に自らの運命や価値を自らの名のもとに選び取る人間。
同時に、多くの人が見たことがあるのではないか。つぼみをつけた状態で枯れゆく花を。春に向かい、咲こうとした時に切り倒される木を。
ここで類推が可能だ。人間も、咲くことを欲している。なにが「開花」なのか。職業的成功、結婚、子育て、業績、称号の獲得など、様々な「開花」、つまり目的を目指して人は日々努力している。それが「週末の一杯」というささやかなものであったとしても。
その「目的」を達することができないことが判明した時、私たちは苛立つ。ある者は軌道修正し、ある者は絶望する。たいへん不愉快だ。
そして、失った「目的」が自分にとってあまりに大きかった時に、人は自らの人生そのもの、出生そのものを呪うようになる。生まれてきたことが間違いだった、恋したことが間違いだった、期待したことが間違いだった、生きていることが間違いだった。
ベトナム戦争の帰還兵は、自らが合衆国のために戦った「英雄」として受け入れられず、社会から「人殺し」として呪われた時、深刻なショック状態に陥った。目的としていたものが得られたなら、そのプロセスは受け入れ可能なものになっただろうと推定できる。しかし、彼らは目的を与えられず、兵役の価値を見失い、戦争後遺症に苦しむことになった[^fawerw]。
たしかに、ベトナム戦争帰還兵の問題は「極端」な問題だ。
しかし、これに類することは日常のそこかしこにないだろうか。大きな目標の喪失、大切な人との別れ、大切な所有物の喪失など。この記事を書いている著者にしても、様々に思い浮かぶ。手が届きそうに思えたキャリア、健康、社会的立場などなど。
また、自分が自分の目標に沿わないことを体験することも多いのではないだろうか。大切な日に抑うつ状態になり約束を果たせなくなる。自らの欲望から、社会的信頼を失う行動をしてしまう。このようなコントロール喪失による目的の不達成は、ニュースにも日常にもありふれている。
### 問われる者
この世界の現象に原因と結果が想定される。これを「因果律」と呼ぶ。科学は結果の原因を求め、原因から結果を導き出そうとする。因果律を前提とした因果関係の解明が科学の土台である。
そしてその土台を基に、人間は現在に原因を措定し、行為を行う。
「1週間後の原稿提出(結果)のため、今日は資料を整理しよう(原因)。」
「3ヶ月後に痩せる(結果)ため、今日からダイエットしよう(原因)。」
因果律そのものは、人間の目標設定と一切の関係がない。自然は因果律にしたがって、アリストテレスが措定した至高存在への上昇という「目的因」を持たずに推移していく。複雑系をなすその流れから、現代社会は意味を導くことはしない。なぜ机の上の物が落下したのか。それは第一原因たる神の意志ではなく、質量と重力による因果律に物質が従っているということだ。
その因果の流れに対し、人間は自らの意志により「○○になるべきである」という立法を行う。これを帰報(imputation)律で説明したのがドイツの法学者ハンス・ケルゼンだ。
>因果律も帰報律も、そのとる文法的形式は、条件をなすものと帰結をなすものとを結ぶ仮言判断(仮言命題)であるが、その結びつきの意味は両者において異なっている。因果律は「もしAがあればBがある(あるいは「あるであろう」)と述べるのに対し、帰報律は「もしAがあれば、Bあるべし」と述べる。因果律を自然法則に適用した例としては、先にあげた「金属は熱せられれば膨張する(あるいは「するであろう」)」という法則があげられ、社会規範に帰報律を適用した例としては、道徳規範としては「慈恵をなした者には感謝すべし」「国に命を捧げた者は、その名誉を讃えるべし」など、宗教規範としては「罪を犯した者は、贖罪すべし」など、法規範の例としては「窃盗を犯した者は懲役に処さるべし」などがあげられる。因果と帰報の相違は、条件と帰結の関係が、自然法則においては人間の、あるいは超人間的存在の行為に依存しないのに対し、道徳規範・宗教規範・法規範においては、要件と効果の関係は人間の、あるいは超人間的存在の行為によって設定されるところにある。[^adsa]
「本日から資料作成したなら、1週間後には原稿は仕上がるべし」「今日からダイエットしたなら、3ヶ月後には痩せているべし」という「べし」は、因果律からは導き出されることはない。これは人間の言語行為である。ゆえにケルゼンは因果律から帰報律を区別した。これらは別の原理である。
さて、この視点を前出の「つぼみ」の例に当てはめよう。
私たちは花のつぼみを見ると、それは「咲かなければならない」という言語立法行為を自らに無意識に行う。その期待が裏切られた時、私たちは「不正だ」と感じる。その期待が果たされた時、私たちは「正しい」と感じる。
つぼみが咲くことなく手折られた。誰がこの花を折ったのか、誰がこの木を切り倒したのか。自分の子どもが水仙のつぼみをちぎった時、親なら「ひどいことをするな」と叱るだろう。風が手折ったのなら、いまいましい風を呪うだろう、もともとの花が弱かったのなら、私たちは心のどこかで弱さを呪うだろう。
つまり、私たちは自らの立てた立法に従っている。私たちは自らの立てた立法に問われている。
「善き原因は善き結果をつつがなく導かなくてはならない。それを阻害するには、それ相応の理由がなければならない。もし自他がその善き因果の流れを阻害したとしたら、自他は不正なる者である」
この帰報律にしたがって、私たちは自他を裁く。しかし、それは因果律という科学的客観性に基づく法ではない。因果律から帰報律を導き出すことはできない。私たちが「花は咲くべきだ」と命じることにより、帰報律が成立する。
### 不正な者
神は人間のそういった立法行為を「まったく無知で不正だ」とレビューする。なぜか。
地震は自らの破壊行為を呪わない。火災は自らの広がりを呪うことはない。人は自他の破壊行為を呪う。自他の失敗の広がりを呪う。その根拠は「自らが自らに立てた法(帰報律)」にある。
私はこうであってはならない、私はこうでなければならない。私はこうでなければ自らを祝福できない、私はこうでなければ自分を祝福しない。
「私」を「他者」や「世界」に置き換えても、それは同じだ。
では、その法の立法根拠は何か。私の中に様々な国民でもいて、それらが選挙により代表を選び、意識内でその代表が自由で開かれた討議を行い、多数決で法案を通し、行政府がそれを実行したのか。
そんなことはない。私たちは多くの場合、願望という恣意でその法を定めている。恣意によって定められた法は、悪法と呼ばれるか、法に値しないと否定されるのが民主制のルールである。その内閣は総辞職するだろう。主権者たる国民から「この立法を制定した者は、まったく無知で不正な者である」と判断される。
つぼみが私たちに「法を定め給う主権者よ、どうか私が咲けるように法を定めてください」と主張したか。
私たちが自らに課した法を達しえなかった。「1週間で原稿を書かなければならない」という法は、私にはあまりの重荷だったということだ。未来の民(私)は喘ぐだろう「どうしてこのような悪法を、私に定めたのか。どういった権限があって、あなたは私に圧制を敷くのか。どうしてあなたの欲望で、私を裁くのか」。
全知全能ではない私たちが定める法は、どれも不完全な悪法でしかない。どこまでも恣意と相対性がつきまとう。国家の定める法であっても、また、個人の定める法であっても。
私は同じ人間として、その行いを責めてはいない。そのような権限は、私にはない。
だが同時に、自らを自らの課した立法によって裁き、呪う私たちを、滑稽であるとは思う。これが自由意志の姿だろうか。これが啓蒙を経た人間の姿か。自己立法とは、法の最低限の公正性をもたないではないか。
### 咲かないつぼみは
咲かないつぼみの悲しさを、私たちはどうしようか。
「その悲しみは主観にすぎない、恣意にすぎない」としても、私たちの悲しみや無力感は癒やされるものではない。なぜつぼみは死んだのか、なぜ私の生活の目的は失われたのか。ヨブの叫びが、そこかしこで上がる。
このような事態に直面して、啓示一神教に立つ者なら、神の慈悲と赦しを信頼するだろう[^0faga]。
では、啓示一神教に立たない者は。
その解答の権限は、私にはない。しかし同時に、自らに立法を課し、それを遵守する大切さと、その限界に気づいた者は、立法に違反した時に以前とは別の態度をとれるのではないかと思う。
その視点は、フランクフルト学派の哲学者E.フロムが与えてくれている。
フロムは、信仰のあるなしに関わらず人は、名誉、国旗、母、家族、名声、生産、消費などを偶像として崇拝することが多々あることを指摘した上で、このように述べる。
>「偶像学」は、疎外された人間は必ずや偶像崇拝者であるということを教える。というのは、その人は自己の生きた力を自分の外にある物の中に移入することによって自己を貧困化するとともに、自分を少しでも保持し、ぎりぎりのところで、自己の同一性を保とうとして偶像崇拝におちいらざるをえなくなるからである。
>......
>そもそも、偶像を認識し、偶像崇拝とたたかうということにおいては、あらゆる宗教の人間のみならず無宗教の人々も、ともに結束することができる。......人類は偶像を否定することにおいては心を一つにすることができるし、疎外から自由な一つの共通の信仰で結ばれることができよう。[^dfaa]
偶像崇拝とは、人間が生きた力を自分の外にある物に移入し、自らを貧困化することである。
そのような私たちは、自らが立てた偶像に捨てられるとき「自己が失われる」という恐怖を抱くようになる。
>従順な人間は、ひとにそむいたときの罰を恐れる。固執をもった人間は、近親相姦的な紐帯を断ち切ると自己が失われて、捨てられるという恐れを抱くのである。[^agfadgag]
「つぼみは咲かなければならない」「私はできなければならない」という法は、偶像ではないか。もう一歩踏み込むなら、人は自らを「不変の公正なる立法者」と言う偶像の地位につけてはいないか。偶像とは、私たちのことではないか。私たちの自他への裁きの峻烈さは、自己が失われる恐れにもとづいているのではないか。
この偶像崇拝からの逃げ道を私が記述するならば、自らを「不変で公正なる立法者」ではなく「気まぐれで無茶苦茶な悪法を連発する立法者」であることを認めることだろう。
みんな違って、みんなダメ。その洞察なしに、この偶像崇拝から逃れる道はないように思える。そしてそれでもなお、義しい立法者を求めるものは、なんらかの信仰や思想に導かれるだろうと考える。もしくは、国家などに新しい偶像を求めるか[^5tq34]。
咲かないまま死するつぼみを「不正だ」と裁く主権は私たちにはない。この事実は、信仰のあるなしに関わりなく、自己の不正を直視することを通じて、多くの人が認められるのではないか。その偶像崇拝の拒否という点に置いて、フロムの言うように、非信仰者と私たちのような信仰者は戦線を共にできるのではないか。
極度に困難な道であることは承知しながら、私はそのように考えている。
[^fasfas]: 関根正雄訳, 1973, 『詩篇』岩波書店, 338.
[^gagas]: 中田考監訳, 2014, 『日亜対訳 クルアーン』 315.
[^faw23]: ibid., 457
[^fawerw]: デーヴ・グロスマン, 2004, 『戦争における「人殺し」の心理学』 筑摩書房.
[^adsa]: ハンス・ケルゼン, 1975, 『正義とはなにか』宮崎繁樹・上原行雄・長尾龍一・森田寛二訳, 木鐸社, 208.
[^0faga]: 例えば、このような啓示を思い起こすだろう。<br>言え、「己自身に仇して度を越したわが僕たちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。まことに、彼こそはよく赦し給う慈悲深い御方。(中田, 2014, op. cit., 497.)
[^dfaa]: エーリッヒ・フロム, 2010, 『自由であるということ』 飯坂良明訳, 河出書房新社, 64-65.
[^agfadgag]: ibid., 97.
[^5tq34]: これは、言うまでもなく、悪手である。新たな偶像は他の偶像を引き寄せ、恐ろしい人心多神教が成立するだろう。