<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-25<br>更新日: 2026-2-25 </span></p> # 内面とは何か ### 神と内面の問題 啓示一神教の伝統では、個人の内面(内心)というものを人間が侵してはいけない、という規範が存在する。ここを漫画などの影響で「宗教は内面の従属を強いる」とする人がけっこうおられるが、「まずは相手を見ましょう」とアドバイスができる。 キリスト教ならばヘブル語聖書には「人はうわべを見るが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)、「主だけがすべての人の心を知っておられる」(列王記上 8:39)などの啓示がある。人に人の心は見通すことが出来ない、そこは神の領域であることが示されている。 また新約聖書には「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ 7:1-6)というイエスの言葉が記述されており、安易に人を自らの権限で裁く(善悪の判断をする)ことが戒められいる。 このような伝統に身を置けば、他者の内面の問題は神の主権の領域であり、個人の及ぶ範囲でないことは理解しやすい。私は教会内で内面への無理解に基づく踏み込みを体験したことはないが、教会外では無数にある。 &#13;&#10; &#13;&#10; また、イスラーム教においても事情は同様であり、むしろキリスト教よりもさらに内面への不可侵を徹底している。 東京大学の松山洋平氏へのインタビュー記事「[なぜムスリム社会はISを「破門」しないのか?](https://synodos.jp/opinion/info/20691/)」を読めばそれがよくわかる。たとえISと言えど、その内面において神と繋がっていることを誰も否定できないので、イスラームの多数派は「破門」などということができない。 預言者ムハンマドはハディースにおいて「これらの忌むべき行為を犯した者は、アッラーが覆ってくださったものを自ら暴露するな」と個人の罪でさえも、内面にとどめ置くならイスラーム共同体は内面に立ち入らないことを明言している。 日本のウラマーゥである中田考も「[日本のムスリムに求められるアキーダ(信条)の知識](https://hassankonakata.blogspot.com/2013/03/blog-post.html?m=1)」においてこのように言明している。少し長くなるが、引用しよう。 &#13;&#10; &#13;&#10; >歴史上の人物である使徒ムハンマドﷺの教えに基づく実定宗教としてのイスラームは歴史学(古典文献学)的宗教であり、ムスリムが必ず知っていなければならないことは、歴史学的考証を経ずして知り得、それ故に万人が知りうることはイスラームの信仰告白の第一段「神(崇拝対象)なし。アッラーを除く。」であり、正にイスラームの最も基底となる教えが、誰にも崇拝を要求しないこと、つまり誰にも何事も押しつけないことだということである。ムスリムがイスラームの教えについて疑問が生じた時、あるいはムスリム同士で見解の対立が生じた時に還るべきは、この信仰告白の第一段であり、誰にも何物をも押しつけない、とのイスラームの根本原則、第一戒なのである。 従って使徒無き時代にあってのイスラームは、あくまでも信用に基づく自発的同意のみによらねべならない。ムスリムは自分を信用することを決して押しつけてはならず、むしろ謙遜では無く客観的事実として強い意味で自分たちが啓示そのものでは無くそれについての「噂」を盲信しているに過ぎず、信用される資格がないことを積極的に示す義務がある。 &#13;&#10; クルアーン釈義免状、ハナフィー派法学修学免状取得を持つ中田の主張を「イスラームではない」などと言う暴論は、通るはずがない。 はっきり言うが、啓示一神教が内面の従属を必須とするという主張は、フィクションである。どのようなものにも例外は存在するが。 ### 内面とは何か 現代は「内面」が限りなく拡大している時代だ。かつての家父長制の強力な時代だったならば、内面とは家の中のことだっただろう。しかし、家父長制も新自由主義等により解体過程にある現在は「家」は稀薄となった。 ここで日本論を展開してもいいのがだ、私も「当たり前のことを分かるように書く」ということに疲れているので、私の例を例示して、読者の参考にしてもらいたい。 <span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">私における「内面」とは「神、救済、愛、死」である。</span>これ以外ない。説明しよう。 **・神** 私は「神が存在するかしないか」なとどいう愚かな疑論をしたことは、信仰をもって以来一度もない。そのような問題は、人と神との関係に存する問題であり、日常言語はそれに対する語彙を持たないことは明白だからだ。 誰が超越と人間の関係性を外から記述できる言語体系を作り上げたか。宗教学を見れば分かるが、せいぜい個人の外面的現象を記述できるに留まっている。 また、上記中田考の論述にあるように、神も啓示も、論理的証明を許さない権威である以上、内面の問題である。押しつけられも、押しつけもできない。 **・救済** これも上記と同じで、終末を社会が経験していない以上、終末を言語で議論するのは不可能である。 **・愛** 人との関係の愛というよりも、神との関係での愛である。その愛を言明する言語は存在しないので、論証不可能である。 **・死** 同上 さて、私はこれらのことを他者と議論しない。「議論しない」と書くとまた誤解が生まれるのは知っている。「一切言及してはならない」という意味に取る方がたくさんおられる。不思議なことだが。 議論しないとは、「神の**有無**」「救済の**有無**」「愛の価値の**有無**」「死の価値の**有無**」について、議論をしないということだ。 それらの立場が表明されたなら、その内容について議論することはよくある。「神はなにを望んでおられるのか」「救済がないとすると、どのように倫理性を担保するか」「死の価値が感じられないとすると、どのように生の意味をつくるか」。様々な論点がある。 しかし、神、救済、愛(の価値)、死(の価値)そのものが**「あるかないか」などという愚かな議論はしない**。それは内面の問題であるからだ。 こんな感じである。気づかれたと思うが、私は内面に「気持ち」や「心」を置いていない。それは十分に言語によってコミュニケーション可能な、非超越的な事柄だからだ。私は自分の心情や気持ちについては、喜んで話し合う。 ### さいごに この記事が読者の「内面」の定義に資することを願う。また、「内面」を無限拡大し、人という小さな神にならないことも願う。そうなると、共存可能性が極端に下がってしまうからだ。 ちなみに無神論者とも、それが積極的無神論者でない限り、十分に共存可能なことはすでに[[アナキズムについて#神学的問題|書いている]]ので、ご参照を。 私の異教徒や無神論者との共存論は、レジェプ・センテュルク「[多様性の中における統一 : 開かれた文明としてのイスラーム](https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/580/files/r001000070007.pdf)」、中田考「[救済の境界 : イスラームにおける異教徒の救済](https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/63)」の見解に基づいていますので、並べてご参照を。 いや、しかし、宗教家がここまで書かなくてはならないのも疲れた。無神論の人もがんばってもらわにゃ。 疲れたのでコーヒーでも飲みます。