<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-26<br>更新日: 2026-2-26 </span></p> # 決疑論への覚書き >これから政治空間でも生活空間でも、感情的な原理原則論に基づいた排他的な主張が横行すると見込んでいます。 > この状況では、哲学・倫理学における「決疑論という概念が、生活や大切な人を守るために極めて重要になってくる。 > 私が決疑論を説明できればいいのだけれど、その余裕が今はない。 なので、私の周りにいてくれる人には、琉球大の吉満先生と大城先生が書かれた「決疑論は方法か態度か」という論文をぜひ読んでほしいと願ってます。 > これ以上ないほど優れた「決疑論」解説なので。ちょっと小難しいかもだけど、Fediverseにいる人なら、読む能力は十分にあると思う。 オープンアクセス。 > >https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/2000950 [^dfaa] 今日はこのような投稿をした。 [[今の情勢への雑感などなど]]で私は、日本は急速に衆愚政治に向かっており、これから泡沫政党が乱立し、言葉の意味が失われ、感情的対立が政治空間にも日常空間にも溢れるだろうという予測を立てた。 そこで、そのような社会を生きるコミュニケーションの方法と態度として、私は決疑論を採用している。その内容は、ぜひ論文を読んでほしい。 ここでは論文に基づいた、いくつかの論点整理の覚書を書き留めておく。 ### コミュニケーションの目的と偶像崇拝の拒否 決疑論を踏まえると分かるのは、コミュニケーションにおいて重要なのは「正しさ」の創出ではなく **・相手の世界観の相互把握** **・妥協経路の創出** **・妥協点における相手の正当性の承認** であることが理解できるだろう。 ちなみに、これが現在のSNS空間や政治空間では破壊されて、民主主義は機能不全になっているというのがガメ・オベールことジェームス・フィッツロイの主張であった。 [初心者のためのSNS民主主義講座 選挙篇](https://substack.com/home/post/p-186920023) これは、私の立場からは人神多神教の神々の戦いが起こっている状態であると表現できる。 自らの原理を疑わず、つねに同一の原理を多様な現実に適用しようとするなら、決疑論としてはそれは「原理の暴虐」となる。それは、自らの見解と立場を神の座につける偶像崇拝である。SNSや公共空間において、そのような自らを偶像とする神々が争っている。 先日公開した[[法と人間]]で、私はE.フロムを援用しながら、そのような偶像崇拝との戦いにおいて有神論者と無神論者は一致できる、と共存と共闘の可能性を提出している。 ### ハーバーマスにおける討議倫理 [[宗教の排除から共存へ]]において私は、公共圏での討議倫理としてハーバーマスの立場を援用した。 &#13;&#10; &#13;&#10; >公共的コミュニケーション行為である「討議」において、発言に対して三つの批判可能な「妥当要求」、すなわちその発言が真であるという「真理性要求」や、正当であるという「正当性要求」や、誠実であるという「誠実性要求」が必要であると考えたのはドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスだ[^tew89a]。 上記の妥当要求が疑問視された時、その妥当要求を根拠によって相互主観的に「認証」し、「合意」を目指す行為、それが討議である。 &#13;&#10; 決疑論に基づくなら、**相手の討論相手としての誠実性の判断基準は「妥協経路・妥協可能性を持っているか」** となり、**正当性の基準は「妥協による相互一致による承認を目指すか否か」** となるだろう。 妥協経路や可能性をまったく持たない相手は誠実ではなく、妥協点における相互承認を拒否する相手は公共圏における正当性を欠く。このような理解だ。 公共圏における討議において、これらの妥当要求は**相互に提出し合う**ものでなければ決疑論に基づくコミュニケーションは成立しない。 つまり私は、感情でも理性でも宗教でもなんでも、妥協可能性や妥協経路、妥協による正当性の相互承認の意志を自ら提示しないものは、自らを神とする偶像崇拝に陥っており、非常に暴力的で危険であるという見解を持っているということだ。 ### 衆愚制の時代を生きるにあたって これから私たちの社会は住みやすく希望に満ちあふれたものにはなってゆかない。そのような洞察は多くの人が持っていると感じている。 その時代を、私はニヒリズムに基づく衆愚制の時代と理解し、表現している。衆愚制の特徴は感情の絶対化と、言語の無意味化である。絶対性を主張する見解が、多くの人に押しつけられていくだろう。 そのような健全な公共圏の解体に対して、心あるものがとれる一つの武器が決疑論という態度・方法であると考えている。 **相手に討議倫理上の誠実性と正当性が認められないなら、討議すべきではない**。その相手は決疑論に基づく討議倫理をもっておらす、その討議は妥協が成り立たない危険なものとなるからだ。 同時に、**私たちがSNS等で作るコミュニティは、相互の重層的な譲歩と妥協と、それによる正当性の承認に基づいたものでなければならない**。衆愚制の時代では、コミュニティの健全さは「盛り上がり」や「人の数」や「主張の強さ・正しさ」ではなく、上記論文で言及される「成熟」で測られると考えるからだ。 私がこのサイトで公開している諸記事も、決疑論的に開かれたものであることを目指している。その成否の判断は、読者諸賢に委ねたい。 >Fediverse民が決疑論的に連帯できれば、これからの社会状況の中であまりにも貴重なオアシスになると確信しています。[^fafasd] [^dfaa]: うえの, 2026, (2026年2月26日取得, https://fedibird.com/@utan/116134722179788875). [^tew89a]: ユルゲン・ハーバーマス, 1991, 『道徳意識とコミュニケーション行為』 岩波書店, 97-110. [^fafasd]: うえの, 2026, (2026年2月26日取得, https://fedibird.com/@utan/116134809852325719).