<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-3-1<br>更新日: 2026-3-1 </span></p> # ひどい一日、属性について ### ひどい一日 昨日はひどい一日だった。なにがという、イランとイスラエル・米国の戦争開始だ。 今回は昨年のように局所戦ではない。イランのハメネイ氏は癌で余命いくばくもなく、殉教を覚悟しているようだ[^agwtwqa]。 私はエマニュエル・トッドなどが指摘するとおり、現在は第3次世界大戦「前」ではなく「中」だと考えている。 今回の戦争開始は、中東全土を巻き込むものになるだろう。またイランの隣国であるアフガニスタンはパキスタンとの戦争を開始し、中東と中央アジアは戦争の真っ最中だ。インドはイスラエルと接近し、大きなきな臭さをかもし出している。 イランに武器供与をしている中国、協力関係を結んできたロシアが参戦すれば、全世界どこが戦場になってもおかしくはない。 東アジアには台湾海峡というリスクがある。ここが中国と米国の戦場となれば、日本は「銃後」にはならない。日本も戦地となるだろうし、高市政権は何らかの法解釈のもとに参戦していくだろう。 まったくひどい一日だ、非常に腹立たしい。 ### 属性について そんなひどい一日には、SNSにいるに限る。独りでいてはならない。誰かの気配でも感じていた方が良い。これは安倍元首相暗殺事件の日に学んだ教訓だ。 Fediverseで話をしていると、オタクの話から「属性」の話となった。 オタクとは「属性」である、とは私にない視点だったので、目から鱗が落ちるような体験だった。精選版日国で「属性」をひいてみよう。 &#13;&#10; &#13;&#10; >ぞく‐せい【属性】〘名〙 ①事物が本質的にもっている性質。 *方鑒秘伝集(1840)上(古事類苑・方技七) 「今九星の体位及び属性を示して、活用妙旨の便とす」 ②形而上学で、精神的実体や物質的実体に不可欠なもの。たとえば、デカルトでは、実体に属する延長と思惟、弁神論では、神に属する無限のたぐい。〔哲学字彙(1881)〕 &#13;&#10; 「属性」とは、事物の本質に属する概念だ。一方、オタクとは文化であると理解してきた。これは斎藤環の著作を学部生時代に読んだ影響からだろう。 「オタク文化」と呼ばれるカルチャーがあり、その文化を好んで摂取し、自己の社会的アイデンティティの一部としているのが「オタク」であると考えてきた。私が哲学という文化を好み、登山という文化を好むように。 たとえば、私の登山好きという社会的立場は「属性」ではない。それは私の本質を規定しておらず、私の一部である。登山についての話をすると「危ないことをするのは無責任だ」とお叱りを受けることもたまにあるが、「そりゃどうもすんません」という感じで、ちょっと嫌味を言うくらいで終わる。 しかし、話の中で、オタクというのは複数人の全人的、つまりその人の本質的な部分にかかわる「属性」となっていることに気づいた。もしそれが剥奪されたり毀損されると、その人の人格を含めた存在そのものの揺らぎとなるようだ。これは今まで分からなかった視点である。 &#13;&#10; &#13;&#10; そこで、「レッテル」という言葉が使用されることにも気づいた。本質に属する「属性」を「レッテル」という表面的な物で言い表すことは本来できない。レッテルはレッテルにすぎず、剥がしたりもできるが、属性は本性に深く関わるので剥がすことはできない。 しかし、類推すると、どうも自分が思う自分の本質を構成している属性である「オタク」と、社会からレッテル貼りされる「オタク」との齟齬による葛藤があるようだ。しかし、その齟齬に直面し、自分の考える「オタク」像を提示するというよりも、その齟齬を与えるレッテルへの抗議で終わる印象も受けた。 私は自分に「宗教」というレッテル貼りを恣意的に行われれると「それは具体性に欠ける」と、自らの立場を明言する。私は啓示一神教徒であり、プロテスタント福音派教会で洗礼を受け、、、云々。そのレッテルがあまりに間違ったものだったら「話にならん」とほっておく。 しかし、今回のレッテルと属性の齟齬からは、このような社会的主張は出てこず、だた「その定義はなにか」や「言葉は正確に使うべきだ」という指摘に終わった。 「登山の定義とは?」という問いは日常会話において、その問い自体が無意味だろう。オタクにしても登山にしても、それは定義を与えてから会話を始めるのではなく、話者の立場と話題で自然に決まっていくものだ。そしてその定義は更新されうるし、正確さも会話の中で更新される。 なぜこのような日常会話が「オタク」では成立しがたかったのか。端的に言うと、それは自らの属性と考えるオタク概念の脆弱性から来る「不安」からだと感じる。それも、わかる。 その「不安」に対して「これが正解だ!」という視点を提示することは不可能だが、私の「属性」にまつわる体験談を軽く公開して、自己理解に役立てて貰おうと思う。 ### むかしばなし 現在の私の「属性」つまり「精神的実体や物質的実体に不可欠なもの」とは、霊肉二元論を拒否する私からすると「神との関係」である。それ以外にない。 「私」にはなんの価値もなく、神との関係に置いて神から意味を与えられるゆえに、私の価値が神によって創出されるという、強固な属性概念を抱いている。しかし、こんな話は誰の参考にもならないので、これ以上は言及しない。 私が10代20代であったころ、私は「私」をどのように認識しただろうか。 もちろん、現在のような強固な啓示一神教の信仰は持っていない。そこで、私は上記「オタク」が行ったように、社会からの「レッテル(ラベル)」によって自らを自己規定し、自己認識していた。高校生、大学生、哲学専攻、文系、非モテ、文学青年、メンヘラ(15年前はメンヘルと言った)などなどなどなど。 当然、社会から与えられたものなので、それらの自己自認は脆弱だった。時に大きく「自己」は揺れ、強いストレスや混乱の中を過ごした記憶がある。 それらの「与えられた属性」は無意味だとは今も思わない。それらなしに人間は自己自認できないからだ。人は社会的な生物である。 同時に、そのような脆弱な属性概念では、いつか精神が折れてしまうことも問題として存在する。ではどうするか。 &#13;&#10; &#13;&#10; 私がやってきたことは、その属性概念を次々と代えていくことだ。 本来、属性とは事物の客観的規定であり、自らの意志で取捨選択できるものではない。物質は「延長」という属性を、気まぐれに放棄できない。 しかし、人にはできる。正確に表現すると「できる領域がある」。 人は自らの肉体属性を放棄することはできない。肉体は物質で形作られており、それらは3次元的属性を持つ。ゆえに、医学や生理学をはじめとする科学の対象となる。 しかし「自己」とは多層的なものである。肉体という物質カテゴリーでは認識不可能な領域がある。それを西洋哲学は「精神」と呼び、宗教思想は「魂」や「霊」などと呼称した[^gada]。その精神的領域においては、自らの自己自認における属性を変化させることができる。 私は、様々な属性をそのように取捨選択してきた。ある時は「社会活動家」、ある時は「蔵人」、ある時は「労働者」、ある時は「トラック運転手」などなど。 そこで、それらレッテルを自分に当てはめ、「これは自分が納得できるのか。自分というものをこれで定義して、本当によいのか」と悩んできた。何年かすると蔵人というレッテルを「これは私の属性にならない」と捨て、社会活動家というレッテルも「これは自分の属性ではない」と捨ててきた。 あれもだめ、これもだめ、何年も何年もかかって、ある時「神の創造物という属性」に出会い、今に至っている。 ### 暗闇の物置で さて、何が言いたいのか。 あなたも神の創造物とう属性を手に入れよう!では、下手な信仰宗教である。そんなことは言わない。私は基本的に当為命題を使った「宣教」をしない。 私が言いたいのは、私は社会から与えられた「レッテル」が自らの「属性」にとならないのならば、新しい概念を求めて行ったということだ。メンヘラ界の先輩が、そのことを上手く表現していた。 &#13;&#10; &#13;&#10; >人は真っ暗な物置の中で懐中電灯を手にして、目的の物をさがしているような状態にある。探し物はこれかもしれない、とAを取る。ああ確かにこれだった!としばらくAを握りしめる。しかし、「いや、やっぱり違う」とAを棚に戻し、次のBを見つける。これだ!と思いBを握りしめるが、それもやはり探し物ではない。そうやって、自分が探しているものを見つける旅が成長の度である。 &#13;&#10; 失礼かとも思うが、私は「オタク」という概念が人の(本質的)属性に足るとは思っていない。100年も歴史がなく、その文化の中にいる人間でさえ自己言及が困難な概念を、人間の精神的「属性」を規定できるとは到底思えない。私にとってそれは登山や車などと同じだ。大切なものではあるが、「私にとって不可欠」なものではない。 ゆえに、私が「オタクは〜」と言及する時、それは人の一部分、文化の総体をあらわす一つの理念型であり、その意味内容は対話相手や状況で柔軟に変化する。 もちろん、車や登山を生涯の課題にする人々もいる。しかし、登山家は登山という属性を得たなら、そこまで動揺もしない。走り屋もしかり。一つの説得力のある文化を作り、自己を言語と行いで表現する。 また、山屋も走り屋も、多くが他の山や車より強固な「属性」を持っているものだ。人の親であったり、△△地域の○○さんであったり、誰かの配偶者であったり、何かの信徒であったり。 他者から与えられたレッテルとしての「オタク」と、自らの属性と位置づける「オタク」の齟齬に、なにか強い動揺を感じるとしたら、それは自分に不可欠な「属性」ではないのだろう。諦めをつけて、次を探せばいい。こだわる必要もない[^dada]。 &#13;&#10; &#13;&#10; このような営みは哲学では解釈学の領域である。 人は対象と「遊ぶ」ことにより、自らを変容させながら自己解釈を変えてゆき、新たな他者と新たな地平で出会うとしたのはガダマーである[^fasfdas]。 未来という時間と遊ぶという営みを、私もやってきた。そこで自己が失われることは確かに不安と恐怖があったが、その変化によって人は「属性」と出会いなおす。そのような営みを人生と呼ぶ。 Noli Metuere. ラテン語で「恐れるな」という言葉を、結婚指輪の裏に刻んだことを思い出した夜だった。 しかし、お陰で戦争への苛立ちと不安を少しは紛らわすことができた。感謝している。 [^agwtwqa]: 中田考,2026, X, (2026年3月1日, https://x.com/HASSANKONAKATA/status/2027811624544026766?s=20 ). [^gada]: 正確に言うと、霊の領域には物体も含まれるが、ここでは通俗的霊肉二元論を下敷きにする. [^fasfdas]: ガダマーの「解釈学的転回」に興味があれば、下記報告書を推奨する。<br>土方尚子・下山千遥・川村壮平, 2025, 「H. -G. ガダマー『真理と方法』の意義とその射程」『哲学の探求』(52): 81-112, ( https://www.jstage.jst.go.jp/article/wakateforum/2025/52/2025_81/_article/-char/ja/ ). [^dada]: 同時に、もしそれが自分の「属性」、つまり本質にとって不可欠であると思うのならば、その属性概念を言語によって説明できるようになっておく必要があるだろう。少なくとも、相手にそれを求めるのは討議倫理の上で誠実さに欠ける。