<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-3-17<br>更新日: 2026-3-17 </span></p> # 科学と信仰と決疑論 以前にMastodonに投稿した「科学と信仰」を巡る私の見解が、なかなか便利なのでここにまとめておく。 --- まず「科学」に立脚するなら、人間の人格など偶然の産物であり、生命に遺伝子の保存以上の意味はないし、その遺伝子にしても偶然によって生まれたことを謙虚に認めねばなりません。 自然に目的などない、とするならば[^fadfasdfa]。 私たち啓示一神教の信仰に立つ人間は、自然には目的があると考えます。自然は神を賛美するために創造され、人と同じく歴史の終わりに向かっている。私たちは神が「殺すな」と命じるので殺さず、「共存せよ」と命じるので共存し、「不正だ」と言われるので死後に裁かれる。 この点において、科学と一神教は、T.クーンのいう意味で通約不可能なパラダイムです。世界観の根本が違う。 なので、お互いに決疑論的に譲り合って共存する他ないと私は考えています[^fsafas]。都合の良い「対話による相互理解」という、生易しい問題ではない。 その通約不可能性を無視すると、アメリカ福音派の「創造科学」のようなグロテスクなものができます。 &#13;&#10; &#13;&#10; 科学は「創造の目的」に基づいた世界の意味性の領域には、原理的に踏み込むことはできません。 我々啓示一神教徒は、我々の手にしている預言者からもたらされた啓示を、預言者なき時代に客観的に真であるとする根拠を持ちません。私たちは1000年以上前からの伝聞情報を、自らの超越との関係で信じているに過ぎない[^adfadfasfd]。 この両者の真実に対する謙虚さが、共存の土台であり一致点です。 ここを認識しない科学ー宗教間の対話は、あまりにもナンセンスなので、無視しています。 [^fadfasdfa]: アリストテレスの自然観を否定することで生まれた科学の歴史を知りたければ、下記著作を参照。<br>野矢啓一, 2015, 『科学哲学への招待』 筑摩書房. [^adfadfasfd]: 中田考,2013,「日本のムスリムに求められるアキーダ(信条)の知識」覚書 (2012年6月12日 国際イスラーム思想研究所東京ワークショップ発表に基づく)」,Hassankonakata,(2026年3月17日取得, https://hassankonakata.blogspot.com/2013/03/blog-post.html?m=1 ). [^fsafas]: 決疑論については下記論文を参照。<br>吉満昭宏, 大城信哉, 2021, 「決疑論は方法か態度か」『Nagoya journal of philosophy』15: 33-47 (2026年3月17日取得, https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/2000950 ).