<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-6-8<br>更新日: 2026-6-8 </span></p> # 常に逃れゆく「問題」を言語ゲームの中で語ることは可能か 最近考えていることを素描しておこう。同じ問題に取り組む人が万が一いるならば、何らかの益にもなろうから。 ### 「主観と客観」という世界観の無反省な跳躍 まず、いささか通俗化された論述であるが、哲学者佐藤徹郎の指摘を引用し、啓蒙主義・科学主義に対する私の立場を大まかに示す。 &#13;&#10; &#13;&#10; > ウィトゲンシュタインの思考様式と科学の思考様式との間の隔りがどれほど大きなものであるかを認識するためには、これまでの考察から明らかになった彼の思想の基本的な特徴を列挙してみるだけで十分であろう。 > 彼は普遍性や客観性を求めることを自覚的に避け、自分のために、あるいは自分の書いたものを正しい光のもとで見ることのできる少数者のためにのみ書いた。彼は哲学の成果が命題の形で表現できることを認めず、世界を「正しく見る」ことを哲学の目標とした。彼は自分の思想を一義的に表現し、一義的に理解させることを目標としなかった。彼は合理的討議や客観的批判が哲学の探究に役立つとはまったく信じなかった。自分と根本的に対立する思想に対しては、彼はそれと戦うよりもむしろそれを無視することを選んだ。したがって彼は、フレーゲやラッセルを批判しながら、たとえば論理実証主義者についてはほとんど論じなかったのである。 > 彼が批判したさまざまな思想は、彼の敵手というよりも、そのほとんどが、かつての自分自身の思想や、彼に影響を与えた「友人たち」の思想なのである。彼が思索の中で格闘する相手は、いわば彼自身の分身であるといえよう。[^fssf] &#13;&#10; 現代は行きすぎたアイデンティティ・ポリティクスが「個人の内面」という、欧米型近代社会が唯一残した神学的な普遍性を持つ場所、つまり超越と人間との接合となる場所でさえ土足で踏み入り、人を徹底した不安と分断と衆愚政治に巻き込む状況がそこかしこで生じている。 個人の内面性は近代世俗社会が唯一残した脆弱かつ矮小な超越との接合点だったが、それすらも失われ、自然法や自然権といった超越との繋がりを前提とする概念は消失した。現在は倫理の立脚点が社会から消失した、功利主義を土台としたリバタリアニズムの時代である。 このような時代において、近代的な「主観と客観」という二元論に基づいた世界観は、人間の幸福に対する有効性を失っている。現在は「客観」というドグマが「主観」を包摂することにより、神ならざる偶像(領域国民国家と結びついた科学主義、それを土台として成立する産業資本主義)が人間を支配する時代である。 近代的「個人」はデカルトのコギトの発見により生まれた、と理解する思想史は、根本的にデカルトを理解し損ねた。『省察』を読めば分かることだが、デカルトはコギトから他者認識へ絶望的な跳躍を行い、その過程で創造主による「私」の連続的創造論にたどり着いてる。 &#13;&#10; &#13;&#10; > なおまた私は、おそらく私は現にあるようにつねにあったのだと想定するとしても——あたかもそのように想定すれば私の存在の創作者を捜し求めなくともすむようになるかのように——このような推理の力を逃れることはできないのである。なぜならば、私の人生の全時間は無数の部分に分割されることができ、そしてその各部分は他の部分にまったく依存していないのであるから、私が少し前に存在したということから、いま私が存在しなくてはならないということは帰結しない。そのためには、なんらかの原因が私をこの瞬間にいわばもう一度創造するということ、言い換えれば、私を保存するということが必要なのである。(『省察』第三省察第二九段落) &#13;&#10; 「認識における固定的定点としてのコギト」という理性主義のドグマは、デカルトではなく後代の世俗社会のドグマである。 しかしそもそも「世界」というものは「主観(私)と客観(世界)」という視点において説明可能なものではない。 自己の連続性は極端に不安定であり、昨日の自分が今日の自分であったかも疑わしい。このことが疑わしいと思えないならば、5分後の自分が何を考えているか予想してみればよい。5分後の私の思考と5分前の私の思考は、確実な連続性を持っているだろうか。あなたが「持っている」と思うなら、だいぶ強迫神経症である、夜寝られないのではないだろうか(朝の自分が自分であるかわからない恐怖を感じて)。 その「世界」なるものを語ろうとする「私(歴史的連続体としての私)」の保存性の根拠がないのだから、そこから見る「世界」などが連続して保存されているはずもない。これは主観の問題ではない、そもそもの「私」は常なる神秘として経験されるという話であり、ここで語る「私」は言語ゲーム上で成立する「私」であり、著者や読者がこの文章を眺めている唯一無二の「私」ではないということでもある。 &#13;&#10; &#13;&#10; **まとめよう**。「話せばわかる」などという主張は、妄想にすぎない。人間の言語は相互理解のために存在しない。<私>は誰にも分かりえない。その率直な視点からは、主観-客観に基づく科学主義の世界は、そもそも仮定すらし得ない(語りえない)。 ### 隣人を持たない<私> この<私>の神秘を考え続けている哲学者に永井均がいる。 &#13;&#10; &#13;&#10; > 私は、ウィトゲンシュタインがある講義ノートで用いた表現を借りて、<私>とは「最も重要な意味において**隣人を持たない**」ものである、と規定したい。そして私は、他者の問題とは、最も根本的には、この本質上隣人を持たないものの(本質上隣人を持たないというそのことを含めた)隣人を捜すことである、と考えているのである。 > <私>の単独性、孤絶性は、<私>は世界の開けの原点であって、他の人間たちは<私>の世界の中の登場人物にすぎない、という単純だが根本的な理由によっている。<私>が他の人々に対していかなる態度をとろうとも、この構図を崩すことはできない。そして、この構図のもとでは、他人たちが<私>の隣人でありえないことは明白であろう。それゆえ問題は、<私>が他の人間たちとはまったく異質のあり方をしており、その意味でそれらから完全に孤絶しているのと**同じような仕方**で、それらから完全に孤絶しているものを、**すなわち**他者を発見することなのである。[^fafaww] &#13;&#10; この隣人の発見は「友だちと出会えた」というような、メランコリックなものではない。隣人を持たない<私>が、いかにして言語ゲームの土台の上で他者を発見するかという、スリリングなものである。その発見の成立例は永井均『私・今・そして神』、デカルト『省察』を読まれたし。 ここで<私>の超越性の議論をするつもりはない(自分で考えてください)。 しかし近代世俗社会における無反省な跳躍を指摘することはできる。本来上、認識も、語ることさえも原理的に不可能なはずの他者を、なぜ現代のアイデンティティ・ポリティクスは雄弁に語りうるのか。ここには、啓蒙主義および世界観マルクス主義の亡霊である人間の「類的本質」というイデオロギーが隠れている。 現代の世俗社会は、20世紀の遺物を無茶苦茶に繋ぎ合わせ、自らの欲望を他者に押しつけているにすぎない。 ### 隣人を探して 隣人を原理的に持ちえない<私>が、どのように隣人を発見するのか。永井の展開する独在論も魅力のあるものであるし、デカルトのそれも誠実ではある。 しかし私は、イスラーム帝国のイスラーム学者アブドゥルガニー・ナーブルスィー(-1143/1731)の存在階梯論にその発見を見つけたい。存在階梯論には倫理性への射程が明確に含まれるためである。 &#13;&#10; &#13;&#10; > 「存在」、「措定されたもの」、「定立されたもの」についての私たちの議論へ戻ろう。 > 私たちがどのように措定し定立しようとも、それは存在を必要とするが、アッラーの存在以外に存在はない。そしてそのようなものはそれ自身としては純粋無でありながらアッラーの存在によって存在者になっている。万物の、措定され定立されたこの「存在」は、それら(万物)の本体そのものであるか、あるいはその付加物であるかであるが、それは形骸の学者や神学者がそれを述べている。かれらはそれをアッラーの存在に対する二つめの存在と見なし、それによって真智者のうちの真理を体得した者である存在一性論学派を批判するが、そのような見解は真智者を害することはない。かれらは(アッラーの存在の)超越性を完全に理解した上で、知る者(アッラー)と知られる者、創造する者(アッラー)と創造される者の間にある類似性が完全であるために存在一性論を主張するのである。それを認めることがかれら(存在一性論者)に不可能でないのは、かれらが知られる者や被造物に対して、知る者や創造主が持つ属性や名称に対応するものを認めるが、それがかれらの存在一性論の一貫性を損なうことはない。なぜなら真理を体得した真智者たちは、全ての存在者を存在者たらしめているものについて語っているからである。それがなければ、存在の中にそもそも存在者(見出されるもの)も、認識されるものも、知覚されるものもありえず、あらゆる被造物はそれらを統括するその(アッラーの)存在を視野に入れなければ、それ自身の中には存在を全く有していないのである。[^fgrsthd] &#13;&#10; このようなタウヒードの立場(存在一性論)に立つと、世界は全て超越者の現われである。この世界には隣人は存在しない。なぜなら、協働者を必要としない唯一の超越者のみが存在しているためである。この点は、宗教者としてナーブルスィーは、永井より遥か先に進んでいると言える。というのは、そこには倫理性の土台が存在するためだ。 ナーブルスィーは述べる。 &#13;&#10; &#13;&#10; >至高なるアッラーへの接近には現世においても来世においても終わりはないことを知りなさい。正しくは、至高者に到達することは決してない。万物は、無始から無終まで**彼**の御下に歩み続けるのである。悔悟の階梯とは、これらの行人たちと共にその道行きに参入することである。一枚のヴェールが剥がれると、別の幾多のヴェールが顕れるばかりである。(アッラーの)顕現に終わりはなく、ヴェールにも終わりはなく、開示にも終わりはない。[^gadgagag] &#13;&#10; ナーブルスィーは存在一性論からさらに思索を進め、存在階梯論にたどり着いている。 超越者の下の階梯にある全ての創造物は、超越者を仰ぎ見ることによって超越者によって存在を付与される。創造物は自らの下の虚無の階梯を見る時、被造物は存在しない。 このような神学は「時代遅れ」のものに見えるならば、前出したデカルト『省察』における自己の連続的創造論を、哲学もしくは科学によって論駁しなければならない。そして、現在においてもその根本的論駁はなされていない。 そのような形で現世というまぼろしにおいて仮に存在する<私>は、日々巡り合う隣人(他者)において超越者を見る。そこでの開示は終わることがない。それがナーブルスィーのスーフィズム修行である。 この立場を日本のウラマーゥである中田考は「タリバン・フェミニズム」と名付け、預言者が指し示す超越者への思慕が原理的に隣人を持たない<私>に隣人を与えることを示した。 現在の社会情勢において、分断された個が奇蹟としての<私>を自覚し、そこから隣人にたどり着くには、超越に向かう道しか残されていないと筆者は考えている。そしてその道へ続く扉を開ける鍵は、倫理性への問いを持つ者のみが持ちえるものであり、冒頭のウィトゲンシュタインと佐藤の述べるようにその鍵を持ちえない者に何を言っても無駄だろう。 [^fssf]: 佐藤徹郎, 2000, 『科学から哲学へ』 春秋社, 69-70. [^fafaww]: 永井均, 1998, 『<私>の存在の比類なさ』 勁草書房, 35-36. [^fgrsthd]: アブドゥルガニー・ナーブルスィー, 2018,『ナーブルスィー神秘哲学集成』山本直樹訳 中田考監訳, 作品社, 45-46. [^gadgagag]: Ibid., 108.