<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-11-1<br>更新日: 2025-11-1 </span></p> # 不完全の神学への試論 私はプロテスタント福音派教会に属するキリスト者である。ここに、現在の私の抱く神学を明記する。 これは試論であり、私の神学の成熟とともに、随時概論を公開してゆく予定である。 --- カトリック、プロテスタントの共通する信仰告白に「使徒信条(クレド)」があることは周知の事実だ。 「もっとも古いローマのカテキズム」[^lspa]と呼ばれる使徒信条は西方教会の土台となる合意事項を述べるものである。その冒頭には、神の全能性が掲げられている。 諸教派に共通する日本語訳は存在しないため、ここではカトリックの使徒信条を引用する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >**使徒信条** >天地の創造主、 全能の父である神を信じます。 父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、 十字架につけられて死に、葬られ、 陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、 永遠のいのちを信じます。アーメン。[^9s89] &#13;&#10; 使徒信条は毎日曜日、毎礼拝で全員が唱和する文章である。カトリックもプロテスタントも、この基本信条に異を唱えることは基本的にない[^aga]。 問題はこの「神の全能性」である。神は全知全能であるのか。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 全てを見通す神概念の異様さ 神は全知全能であるという。神は全てを見通し、全てが可能とされる。しかし、その全能の神の姿は、聖書からは見られない。 創世記を見てみよう。 まず神は世界を創造する(1:1-19)。世界が生まれた後、生命が創造される(1:20-31)。それら自らの創造物は、神の目から見て「極めて良かった」(1:31)とされる。 次いで、神は人をエデンの園に住まわせる(2:4-15)。中央には命の木と、善悪の知識の木が植えられていた(2:9)。そして人はその楽園に住んでいたが、ある時蛇にそそのかされ、善悪の知識の木を食べてしまう(3:1-7)。その事態を見た神は「なんということをしたのか。」(3:13)と怒りと嘆きの言葉を口にする。 さて、これが全能の神の姿だろうか。たしかに天地創造は全能の神らしい業である。人間には及びもつかない創造の日々、自らに似せた創造物まで作ってしまう神秘の業、まさに神が神たる姿だ。 しかし、その後、その神は自らの創造物である人に対して、初めての子育てで右往左往する親のような姿を見せる。 非信徒からは当然のように「なんでそんなところに善悪の木を植えたのか」「なんでそんなことするように蛇が創造されているのか」という疑問がキリスト者に浴びせられる。キリスト者が神の全能性に立脚する限り、そこでの回答は矛盾に満ちたものになる。なぜなら、すでに聖書の記述そのものが神の全能性を否定しているからだ。 ここでの神の姿は、全てを見通す全知者ではない。思い込みを横に置いて読めば、思いもしなかったトラブルに直面し、なにが最善かわからず右往左往して、過剰に子どもを叱りつける自信のない親の姿がそこにある。 無理やりに「全能の神」という概念を固持しようとするならば、神はこうなることを見通しながらエデンの園を創り、人をそこに住まわせたことになる。それが愛であり父である神のすることだろうか。冷静に考えてほしい、それはあまりにも異様な神だ。 &#13;&#10; &#13;&#10; その後のイスラエルの歴史でも、神の姿は常に不完全な存在として描かれる。カインがアベルを殺した時も「何ということをしたのか」と絶句し、戸惑う姿を見せる(4:10)。 全てに嫌気がさし、洪水で地上を覆った時も、ノアの捧げ物を受け取り、さすがに反省したように「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない」と「心の中で言われた」(8:21-22)。これは子どもを叱りすぎた親の態度である。「しまった、やりすぎた。次はもっとやさしくしてやろう...」。 創世記以降にも、神は頻繁に後悔し、思い直す。出エジプト32:14、サムエル記上15:11、ヨナ書3:10などなどで、神は時を経るごとに柔軟な、子育ての妙をわきまえた親のような姿に変化する。特にヨナ書での神の姿は、もはや罰する全能の神ではない。諭し、包容するように導く神である。 聖書においては、世の始めから終わりまで全知全能なる神の像は、神の側からは示されていない。示されるのは「私は唯一であり全能である」と強がりながらも、様々な譲歩や後悔や対話を重ねる、人と共にある不完全な神の姿だ。 そして最後は、最後の手段としてイエスを地上に遣わすような、人と共に歩む神である。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 新しい全能性へ では、次の疑義が起る。神はなにをもって神なのか、という疑義である。神は完全であり全能であるという立場を棄却するならば、この問いに答えなければならない。 1990年代からアメリカを中心に広まった「オープン神論(Open Theism)」においても、私の主張と同様に、神は未来を見通す存在として理解されない。人との歩みの中で、神は共に未知なる未来に向かって歴史を歩む存在として描かれる。 しかし同時に、また奇妙なことに、従来的な神の完全性は保持する方向を持つ。オープン神論の基調をまとめている山崎ランサム和彦師の記事を引用する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >愛が可能な世界は自由意志が存在する世界であり、自由意志が存在する世界は未来が部分的に可能性として存在している世界なのです。神は愛が可能である世界を欲しながら、未来のすべてが厳密に決定されている世界を造ることはできません。それは論理的に不可能です。**これは神の全能性を損なうことにはなりません**。全能の神にも論理的に不可能なことがら(たとえば丸い三角形を造ること)を行うことはできないのです。[^fasfa] &#13;&#10; このオープン神論の主張は、神の全能性に固執するキリスト者の論理破綻を再度持ち込む奇妙さを持っている。神が全能なら、その超越性によって、論理性を変化させればよいはずである。神が自然の斉一性に規定されるというならば、それは超越としての全能なる神の姿ではない。 では、神は人と変わらないのか。神は長生きする人間にすぎないのか。それは否である。 ヘブル語聖書でも新約聖書においても、神はつねにイスラエルという人々の集合体と、またさらに広く異邦人と呼ばれる人々と共に歩む姿を示す。イエスの神性を受け入れるならば、容易く理解できる。 奇蹟行為者としてのイエスは、その奇蹟でもってパリサイ人を滅ぼし、神殿を天からの火で焼きつくしたか。彼はその奇蹟を行わず、共食や病の癒やしという奇蹟を行いつづけた。自らの最期を予見し、それを避けたいと祈りながらも、ゲツセマナの園で父なる神の意志が行われるように祈った。その姿は、頼りない弟子と強力な迫害者の間で苦悩する、人と共に歩む神の姿だ。決して歴史を超越的な力で、思い通りに改変するような全能の姿ではない。 &#13;&#10; &#13;&#10; ここで私は、神の全能性に関する別の解釈を提示したい。私も使徒信条を告白するキリスト者であり、神の完全性・全能性を信じている。しかしそれは、旧来の神学が前提としてきた、外部に何者をも必要としない自己充足性を備えた神としての完全性ではない[^3geae]。 神の完全性とは、自らが創造の業の中で創った不完全な創造物である人と、どこまでも共に歩みつづけるその姿勢にある。何億年、何万年経っても、また様々な離反や諍いをお互いに経験しつづけながらも、神は人に語りかけ、子を遣わし、聖霊を遣わし、歴史の中で苦闘しつづける人類と共に歩んでいる。 そこには、初めての創造(子育て)で苦闘しながらも、なんとか愛する子どもを善く導こう、自分も善い親になっていこうとする神の苦闘の姿がある。 以上のことを踏まえると、神の完全性とはその創造性と、創造物と共に歴史の始まりから終わりまで歩みつづける姿勢にあることは明白ではないだろうか。少なくとも、それは人間には到底不可能な偉大な業である。 その姿勢を分有するがゆえに、イエスは確かな神性をもつ。彼は神の子に相応しく、このように宣言する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。[^da8] &#13;&#10; 人はなぜ神の完全性を、無謬であり全てを見通すという、恐怖と異様さに満ちたものに描いたのか。その答えは、マルコ福音書の最後が教えてくれるだろう。 &#13;&#10; &#13;&#10; >恐ろしかったからである。[^afgas] &#13;&#10; しかし、福音書を通して示される神の恵みと和解は、その恐ろしさを消滅させ、人に神の完全性を理解させるものでないだろうか。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 神義論への問いかけ 最後に、神義論への問いかけを行う。 全能なる神が創った世界が、なぜこのように不完全なのか、悪に満ちているのかという、古代からの問いだ。 ヘブル語聖書の時代から、世界には殺人、盗み、姦淫、戦争、抑圧、搾取が満ちている。なぜ神は世界をこのように創ったのか。 これまでは、その問いを人間の原罪による楽園追放によって解釈されることが多かった。神の言葉に反して知恵の木の実を食べたことにより、男には労働、女には産みの苦しみという不条理が出現したという解釈だ。つまり、この世界の不条理は人が「創造」したことになる。 上記の釈義もまた、矛盾に満ちている。なぜそのような「悪」の創造の力を神は人間に付与したのか。それが自由意志というなら、そのような自由意志を存在させた神自身の責任は問われることとなる。製造物責任法、PL法。 矛盾と異様さに満ちた神義論の歴史が積み重ねられてきたが、上で提出した神の完全性の解釈を適応するなら、無知にまみれた人間という不完全な存在である私たちにも、容易に理解できる。 神も不器用なのだ。初めて(であろう)の世界の創造において、そんなに上手く全てを創れるはずがない。自らの創造物の行いに「あなたはどこにいるのか」「何ということをしたのだ」「なぜ信じないのか」と驚きの連続を続けざるを得ないような、不器用な神の創造の業がそこにある。 「神は人を自分たちの形に創造された」(創世記1:27)とあるが、これを「人は本来、神の完全性を持つものとして創造された。しかし、堕落によってその性質を失った」とする理解が神学を支配してきた。しかし、ヘブル語聖書と新約聖書から提示される、人と共に右往左往しながら歩む神の完全性を踏まえれば、私たち人間に分有された神の性質とは「右往左往し、誤り、後悔し、憤り、絶望する。それでもなお、歴史の終わりに向かって歩みを進めつづける創造と協働の能力」だと理解できる。 確かに、神の創った世界も人間も不完全だ。しかし、私たちと神は共に、その不完全性に絶望しつくすことなく、歴史の歩みを何千年、何万年も続けている。今日も世界の空にかかる虹は、その未来へ神が共に向かいつづける約束を、私たちに思い起こさせるものである[^0ljk]。 この神学の上で、私も礼拝で恥ずることなく「使徒信条」を、信仰の兄弟姉妹と共に告白している。 &#13;&#10; &#13;&#10; ### 結び 今回は私が抱く「不完全の神学」の全体像を素描する試論を公開した。この試論が、世のキリスト者の兄弟姉妹を驚かせることは、理解している。兄弟姉妹の信仰の情を悲しませたのなら、それは本意ではない。 同時に、イエス・キリストに呼ばれ、父・子・聖霊の名において洗礼を受けて4年、私なりに私たちの信仰を世に語り、福音を宣べ伝えてきたつもりだ。そこで非信徒の方々から提出される様々な疑問に、私はキリスト者として向き合ってきた。 私は神と同じく、究極の完全性を有した存在ではない。なので、その疑問に全てを答えつくすような、超越的な業はできない。私が示せるのは、様々な矛盾と共に、それでもなおその矛盾の中で人々と共に生きるという、イエスの姿勢に倣うこと、倣いつづけようと格闘することくらいだ。この神学において「聖化」とは、そのような泥臭い営みのことである。 「あなたは神の子、キリストです」と、安易な答えを出したペテロを叱りつけた[^ewrtq3]人であり神であられる方の姿勢、私たちと共に矛盾を歩む神、その姿勢を学び続けられることを祈っている。 [^lspa]: 『カトリック教会のカテキズム オンデマンド版』 日本カトリック司教協議会 教理委員会訳, カトリック中央協議会, 2025, 65. [^9s89]: ibid., 59. [^gaoi0]: ウィリアム・ジェイムズ, 1969, 『宗教的経験の諸相 (上)』 桝田啓三郎訳, 岩波書店, 395-396. [^3geae]: この点に関して、私は林研のW.ジェイムズ理解に拠っている。下記著作を参照。<br>林研, 2021, 『救済のプラグマティズム』 春秋社,59-60. [^aga]: プロテスタントにおいてはユニテリアン等、使徒信条に基づかない教派も存在することは付け加える。 [^fasfa]: 山崎ランサム和彦, 2016, 「オープン神論とは何か(4)」, 鏡を通して ―Through a Glass―, (2025年11月1日取得, https://1co1312.wordpress.com/2016/04/23/%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%83%97%e3%83%b3%e7%a5%9e%e8%ab%96%e3%81%a8%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%8b%ef%bc%884%ef%bc%89/). [^da8]: マタイ 28:20(新共同訳) [^ewrtq3]: マルコ 8:30, ルカ9:21. <br>田川建三の指摘通り、この箇所の「epitimaō」を「戒める」と訳するのは無理があるだろう。<br>田川建三, 2008 『新約聖書 訳と註 第1巻』 作品社, 290-291. [^afgas]: マタイ16:8(新共同訳) [^0ljk]: 創世記 9:12-17.