<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-12-19<br>更新日: 2025-12-19
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# ある種の虚無主義に対する思想的対話 -意味から無意味への問いかけ-
Xで[このような投稿](https://x.com/eitangono_akuma/status/2001096406476710132?s=20)を見た。ここで筆者が行う「ニヒリズムは前提に過ぎない」という主張は、まっとうなものである。以下ではこのニヒリズムを「虚無主義」という語で置き換えて論述を行う。
哲学史や思想史を見ると、様々な実例がある。むしろ、何らかの意味の解体を経て、意味の再構築を成し遂げていない思想家は例外と言えるだろう。マルクス、フッサール、ハイデガー、ウイトゲンシュタイン、様々な思想家がかっての自分の持っていた意味性を放棄・解体し、新たな意味の体系を構築していった。思想の営みとはそのようなものだ。
しかし同時に、それら思想に対して新たな意味を提出し批判するのではなく「そもそもそれは無意味だ」と主張するある種の虚無主義(虚無主義Bと表記する)を見ることも多い。
ある思想家Aが「〇〇には△△という意味がある」と主張する時に、虚無主義Bが「そもそも意味などない」と主張する。私はその投げかけそのものの持つ、他者や思想に対して無意味性を投げかける虚無主義Bの主体がとる態度に「不誠実さ」「卑怯さ」を感じてきた。どうも、その投げかけは対等な議論の土台を破壊しているように思える。しかし、20代の時から感じるその感情を、なぜそう感じるかを突き止め、概念化することはできなかった。
その概念化を今回、この問題に取り組み始めて15年を経て初めて行うことができた。公共の福利のために、それを記述する。
### 虚無主義の自家撞着
まず、何らかの思想はニヒリズムを通過しているという前提を提出する。思想が思想たるべきには、その自己更新の営みが不可だろう。そこで立ち止まっては、問いを発する主体となる自己は解体してしまう。そこで立ち止まらず、世界に自らを投機する、ある種の傲慢かつ自己犠牲的行為が、意味性の主張である。
意味を主張する思想家Aがいるとしよう。その思想家Aは意味性A'を成立させるために、様々な他の概念の組み立てや実践を経てきている。そのような「世界観」と呼ばれる枠組みとしての体系がなければ、科学が発達した現代において意味性は主張しえない。現代において、仮説と理論と実験(実践)による論証過程が存在しない主張は、社会に合理性を主張できないためだ。
それは理系文系問わず、言語と論理を併用する形式の「議論」における土台である[^7dr]。
しかし、虚無主義Bは、そのような構築の実践や論証過程をすっ飛ばして「A'は無意味だ」と主張している。そこに理論や体系性の前提が見えない。
そのような虚無主義Bの主張には、科学的な手法における検証や論証の作業は介在しているだろうか。そこにあるのはB=B、つまり、意味がないから無意味という、トートロジーが存在するのみであることが多数ではないか。そうならば、それは、言語と論理性を用いた議論における「主張」ではない。「感慨」や「独白」の部類である[^fsf8]。
そのようなトートロジーをもって、最低限の論証過程を経ている意味性A'を否定することはできるだろうか。
よく考えてみてほしい。そのような否定は、議論に値しないと社会的には判断されるのではないか。少なくとも、私はそのように判断する。そう判断するのは、感情的な憎しみにおいてではない。<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">共通の議論の土台が存在しないため</span>だ。
この共通の土台(一致点)を構築するという労を払わず、意味を無意味化する姿勢を、私は「冷笑による無意味化」と呼んでいる。これは対等な人間関係を取り結ぶ姿勢ではないし、教育的関係でもない。
### 意味性を前提する立場として、虚無主義に求める態度
ここで、「生命に意味はある、世界に意味は存在する」と主張する、意味性を前提とした哲学・神学に立つ私から、虚無主義Bに対して次の3点の要望を記載する。これさえしてくれれば、私たちは有意義な議論が可能だろう。
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- 虚無主義Bは他者の意味否定を媒介して自らの優位を証明しようとするより先に、無意味性の価値を自らの無意味性の体系と実践で論述すべきである
これは科学の検証作業の基本である。自らの体系性や理論性の論証なしに、他者の体系を批判することはできない。議論が成立しないからだ。
そこで論述が「無意味だから無意味」というトートロジーを示し、自己の内で閉じるならば、議論は発生しようがないことが理解できる。
それでもなお、何らかの理由により、意味性を前提する立場と議論を成立させたいならば、次の2つの態度と実践を私は求める。
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- 無意味性を前提とする立場からも、意味を前提とする立場との議論の一致点を提出すべきである
虚無主義Bの側から意味性を前提とする体系と議論を行うことを欲するなら、どのような一致点で議論が可能か、虚無主義Bの立場からも提出すべきである。私には、その一致点は現在のところわからない。虚無主義Bのほうがトートロジーから出ず、無意味性の体系と論証過程を示さないためである。
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- 言語における議論が成立しないならば、別の対話形態を用いるべきである
前述した「表現」などは、その領域であろう。ここは私の主にいる領域ではないので、詳しくは言及しない。
文学や絵画や音楽などの表現には、その表現のルールと文脈と歴史性があり、その上で無意味性を表現するなどしてくれれば、それに対して哲学・思想側の私が言及する可能性は豊かに生まれる。そこでは「感慨」や「独白」も、豊かな対話性を持つ。
### 感情(emotion)の問題
虚無主義Bが前提としているのが「感情」であることは、私も薄々気づいている。「表現」という要素に言及したのは、そのためだ。
虚無主義Bを採る人には、世界に意味がないように、どうしようもなく感じられるのだろう。自分の苦悩に意味があるとは、到底思えないのだろう。
そのような感情の問題は、私にもよくわかる。なぜなら、私たち意味性を前提とする立場は、最初から一貫した意味の土台の上に構築されたわけではなく、現実の与えるリアリティショックによって、何度もその体系は虚無主義へと解体される過程を経た上で構築されているためである。私たちが一切の虚無主義を経ていないと前提するのは、人間理解の不足と評されても仕方ない。
しかし、私たちも虚無主義では生きていけなかった。そこで他者や社会、または何らかの真理や救済をどうしようもなく求めた。その結果として、現在の意味の体系があり、またそれは更新を続けている。そこでは、私たちは虚無主義を「自らに対する否定性」という形で、プロセスとして今も内包している。
そのような人間の自然に参与するかしないかは、個人の自由である。しかし、もし参与しようとするなら、世界の諸学問や社会は開かれた門でその人を歓迎し、育ててくれる。私たちはそれを知っているし、またその厳しくも暖かい手を信頼しているのだ。
この他者や社会や学問・思想への頼という感情の拠点が、私たち意味を前提とする者たち同士の様々な議論における主要な感情的一致点となっていることに言及し、小論を終える。
[^7dr]: 「表現」は別の形態をとることは追記する。芸術や文学などの「表現」は言語と論理性を併用する「議論」にはない領域を持っている。
[^fsf8]: 「わたしの経験はこのように無意味だった。だから、あなたのその経験や前提も無意味だ」とする主張がよく見られるが、それは自分の経験と他者の経験を前提や媒介なく「=」で結べる同じ経験とする点で、トートロジーに陥っており、論理的に閉鎖しているので議論的な一致点がない。