<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-24<br>更新日: 2026-2-25
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# 宗教の排除から共存へ ー重層的アプローチの試論
> [!更新履歴]
> 2026.2.24「それぞれの責任」として記事公開
> 2026.2.25「宗教の排除から共存へ」と解題し増補改訂
本稿では、日本社会における公共空間からの宗教排除、並びに個人の内面の拡大と定義の不在による無神論者の教義の押しつけという問題をあつかう。
公共空間とは政府や学校などの組織に限らず、SNS上の言論空間も指す広義の「公共」である。
私は宗教者として、特に啓示一神教徒として生きるにあたって、日本社会における様々な問題を体験してきた。そのような体験をもとにした解釈学的分析が、新たな有神論者と無神論者の共存、相互理解、対話に資することを願っている。
本稿は
**1.政教分離というイデオロギー**において、日本の生活意識における「政教分離」概念、また「宗教は心の問題」という定義が現実妥当性を持たないことを明らかにする。
**2.啓示一神教における内面**において、啓示一神教が持つ内面概念を明らかにする。
**3.内面の尊重における齟齬**において、日本社会で起きる有神論者と無神論者の間の「内面」理解の齟齬が発生し、無意味な押しつけが起っていることを確認する。
**4.内面の尊重と新たな課題**において、真の意味での「内面の尊重」を土台にした相互理解の土台を示す。
### 1.政教分離というイデオロギー
日本は「政教分離」国家であると言われる。政教分離とは何か。精選版日国をひいてみよう。
>せいきょう‐ぶんり【政教分離】
〘名〙 政治と宗教の結びつきを切ること。信教の自由を確保するためにできた原則。祭政分離。
学校の歴史授業で習うことだが、日本に政教分離原則が「輸入」されたのは、第二次大戦後、GHQが日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた「神道指令」がその始まりである。
そして国家運営における「政教分離」原則は、追って制定された日本国憲法第20条および第89条によって内容が定められた。その後、愛媛県靖国神社玉串料訴訟や砂川政教分離訴訟等で判例が蓄積され、現在も国会議員靖国参拝問題などで議論が続いている。
その法制史や思想史について触れるつもりはない。ここで扱うのは身近な日常意識の問題だ。つまり、法学における「政教分離」ではなく、なんとなくの「政教分離」である。
まず身近な例をあげよう。「宗教は心の問題」という意識である。この意識の出所はどこか。
日本における政教分離輸入以前から、ヨーロッパでは政教分離が行われてきた。
中世期からカノッサの屈辱や叙任権闘争などで争われていた聖俗の争いが、フランス革命で市民階級を巻き込んで全面化し、結果、フランスでは政治や行政からのカトリック勢力の厳格な分離が進められた。
その歴史の動きに呼応して、ドイツではプロテスタント改革派の神学者フリードリヒ・シュライアーマッハーを中心とした自由神学が生まれることとなる。
岩波の『哲学・思想事典』で「シュライアーマッハー」の項をひいてみよう。
>シュライアーマッハーによれば宗教は独自の精神領域を持つ。それは、理性に根拠を置く哲学や、意志に根拠を置く倫理学とは異なり、感情である。それゆえ宗教の本質は「絶対依存の感情」であると言われる、彼によると神は単なる客観的実在者超越者として語ることはできない。また単なる内面性と同一ではないが、神は人間との避の事実において、体験の反省ないし告白として語り得るとされる。
シュライアーマッハーは自由主義神学の父と呼ばれる。自由主義神学とは、同じく『哲学・思想事典』によると「全般的に自由主義神学の特徴を言えば,近代科学の成果を神学研究が受け入れ,社会の世俗化の傾向が持つ積極面を評価する」と定義される神学思想だ。
自由とは、ローマ帝国およびその継承国におけるカトリックの政教一致、またカルヴァン・ルター的政教一致からの自由である(世俗化)。そして、それゆえに神は教会や国家などの共同体に存するものではなく、個人の「心」の中に存在するとされる。
筆者は、この近代ヨーロッパに生まれた自由主義神学の「宗教は心の問題である」というテーゼが、戦後日本にも輸入され、日本の「なんとなくの政教分離」の生活意識を規定していると見ている。
ここで中田考の指摘を引用する。押さえてほしいのは、このシュライアーマッハーの「宗教は心の問題」であるという政教分離概念は、ヨーロッパのカトリック・プロテスタントの歴史的前提を土台として生まれた批判的概念であるという点だ。
>政教分離の概念は、他の概念と同じく欧米から輸入されたものですが、実はこうした社会システムの複雑化、高度化に伴う機能分化、部分システムの分化に関する理論的考察から生まれたものではありません。日本語では「政教分離」と呼び慣わされている間題系は、英語ではseparation of politics and religion(政治と宗数の分離)より、separation of church and state (教会と国家の分離)として論じられることが多いものです。つまり、ヨーロッパのキリスト教会という組織のローカルな歴史的体験が、あたかも普遍的な原則ででもあるかのように論じられているのですが、そもそも「教会」になじみがない日本ではもっぱら「政教分離」として論じられるために、その特殊ヨーロッパ・キリスト教的性格が隠蔽され見えにくくなっているわけです。
>もともと歴史的得然の産物でしかありませんので、「政教分離」のそもそもの発祥の地である欧米ですら、国によって事情はばらばらです。フランスのようにカトリック教会をアンシャン・レジームの主要敵の一つとした革命により公的空間から完全に宗教を締め出そうとする世俗主義を取った国もあれば、アメリカのように特定の宗派の優遇を禁じつつ公的空間での宗教行為を禁じていないため法廷で聖書に手をおいて宣誓する国もあります。ドイツでは国家が教会税を代理徴収しており、イギリスでは国王が英国聖公会の首長を兼ねています。カトリックのバチカン市国に至ってはローマ教皇が元首である文字どおり政教一致の国です。このようにその発祥の地である欧米においてさえも政教分離の概念の内実は千差万別なのであり、とても比較文明論の厳密な議論に堪える学術用語ではありません。[^fadasa]
ローマ帝国の国教として1000年以上統治システムを担ってきたキリスト教。中世末期から近代にかけての世俗権力とローマカトリック教会という、聖俗をそれぞれ担う官僚集団の権力闘争。30年戦争という全ヨーロッパを巻き込んだ大宗教戦争とウェストファリア条約以降の世俗化の潮流などを前提に生まれたのが、啓蒙主義と自由主義神学における「政教分離」であり「宗教は心の問題」という図式である。
日本の「宗教は心の問題である」なので「共同生活や政治などにかかわるべきではない」、それが「政教分離である」という生活意識は、近代ヨーロッパ発祥の局所的思想を無批判に受け入れたものと筆者は考える。そしてこの図式は、ヒンドゥー教や儒教や神道や仏教やイスラム教などに限らず、政教分離の発祥地である西欧の政治体制さえ実体を捉えることが出来ないという大きな問題を抱えていることは事実だろう。
現代は西欧中心だった政治システムが崩れ、世界各地で数千年の歴史を持つ文明圏が新しい運動を始めている激変期だ。私たちはもういい加減、「政教分離」「宗教は心の問題」などの、局所的かつ曖昧模糊としたイデオロギーでなにかを分かったような気になることはやめて、自他の文明と向き合う時期なのだ。
### 2.啓示一神教における「内面」
日本人は宗教を「心」の領域に押し込むことで、戦後の社会システムを構築してきた。それは新自由主義的資本主義において便利であると同時に、様々な問題を生んでいる。
ここからは、啓示一神教が個人の「内面」をどのようにして捉えているかを明らかにした上で、現代の日本の生活意識がもつ問題を論述する。
啓示一神教の伝統では、個人の内面(内心)というものを人間が侵してはいけない、という規範が存在する。ここを漫画などの影響で「宗教は内面の従属を強いる」とする人がけっこうおられるが、「まずは相手を見ましょう」とアドバイスができる。
キリスト教ならばヘブル語聖書には「人はうわべを見るが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)、「主だけがすべての人の心を知っておられる」(列王記上 8:39)などの啓示がある。人に人の心は見通すことが出来ない、そこは神の領域であることが示されている。
また新約聖書には「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ 7:1-6)というイエスの言葉が記述されており、安易に人を自らの権限で裁く(善悪の判断をする)ことが戒められいる。
このような伝統に身を置けば、他者の内面の問題は神の主権の領域であり、個人の及ぶ範囲でないことは理解しやすい。現代カトリックは第二バチカン公会議で個人の良心の不可侵を認め、プロテスタントは万人祭司制をとり、原則的に聖職者による内面への介入を認めない。
私事においてであるが、私は教会内で内面への無理解に基づく踏み込みを体験したことはないが、教会外では無数にある。
また、イスラーム教においても事情は同様であり、むしろキリスト教よりもさらに内面への不可侵を徹底している。
東京大学イスラム学研究室准教授である松山洋平氏へのインタビュー記事[「なぜムスリム社会はISを「破門」しないのか?」](https://synodos.jp/opinion/info/20691/)を読めばそれがよくわかる。たとえISと言えど、その内面において神と繋がっていることを誰も否定できないので、イスラームの多数派は「破門」などということができない。
またイスラーム教は、内心を公言することを推奨しない。前述の松山洋平の著書にはこうある。
>イスラーム教では、被害者の出ていない罪については、隠すことが推奨されている。ハッド刑(啓示により定められた法定刑)を科すことが定められた罪を犯したとしても、(細かいことを言えば、隠すことが好まれる条件について法学者間に詳細な議論があるものの)基本的には、その罪を犯したことを隠匿し、個人的・秘密裡に神に悔悟することがより好ましいとされる。有名な伝承によれば、ある男が姦通の罪を告白するためにムハンマドの許にやってきたとき、ムハンマドは顔をそむけて彼の言葉を無視し、「立ち去り、神に赦しを求め、悔悟しなさい」と述べたと伝えられている。
>ムハンマドに伝わる伝承の中で、神は「よく秘する者(Sittīr)」との美称で呼ばれる。個人的な罪や欠点が人の目から隠されている状態は、神からの恵みと言じられているのである。[^faa]
イスラーム教は何でもかんでも罪に定め、個人の内面に立ち入る宗教ではないことがわかるだろう。
日本のウラマーゥである中田考は[「日本のムスリムに求められるアキーダ(信条)の知識」](https://hassankonakata.blogspot.com/2013/03/blog-post.html?m=1)においてこのように言明している。少し長くなるが、引用しよう。
>歴史上の人物である使徒ムハンマドﷺの教えに基づく実定宗教としてのイスラームは歴史学(古典文献学)的宗教であり、ムスリムが必ず知っていなければならないことは、歴史学的考証を経ずして知り得、それ故に万人が知りうることはイスラームの信仰告白の第一段「神(崇拝対象)なし。アッラーを除く。」であり、正にイスラームの最も基底となる教えが、誰にも崇拝を要求しないこと、つまり誰にも何事も押しつけないことだということである。ムスリムがイスラームの教えについて疑問が生じた時、あるいはムスリム同士で見解の対立が生じた時に還るべきは、この信仰告白の第一段であり、誰にも何物をも押しつけない、とのイスラームの根本原則、第一戒なのである。 従って使徒無き時代にあってのイスラームは、あくまでも信用に基づく自発的同意のみによらねべならない。ムスリムは自分を信用することを決して押しつけてはならず、むしろ謙遜では無く客観的事実として強い意味で自分たちが啓示そのものでは無くそれについての「噂」を盲信しているに過ぎず、信用される資格がないことを積極的に示す義務がある。[^dafsfa]
イスラーム教は宣教においても、異教徒の内面に立ち入ることは避ける。クルアーン釈義免状、ハナフィー派法学修学免状を持つ中田の主張を「イスラームではない」などと言う暴論は、通るはずがない。
はっきり言うが、啓示一神教が内面の従属を必須とするという主張は、フィクションである。どのようなものにも例外は存在するが、例外は例外として議論しなければならない。
### 3.内面の尊重における齟齬
前節では啓示一神教の内面観を概観した。ここからは筆者の内面定義の叙述を行い、その上で実際の生活で起っている齟齬を論述する。
現代は「内面」が限りなく拡大している時代だ。かつての家父長制の強力な時代だったならば、内面とは家の中のことだっただろう。しかし、家父長制も新自由主義等により解体過程にある現在は「家」は稀薄となった。
ここでは日常意識を扱うので、あえて日本文化論などを引用せず、わたし個人の内面理解を提出する。観察者と非観察者の一体化は科学の方法ではないが、本論考はガダマーの解釈学的転回をその認識論にしているためである。
筆者の宗教観・人間観における「内面」とは「神、救済、愛、死」である。これ以外ない。
説明しよう。
**・神**
私は「神が存在するかしないか」なとどいう愚かな議論をしたことは、信仰をもって以来一度もない。そのような存在論の問題は、人と神との関係に存する問題であり、日常言語はそれに対する語彙を持たないことは明白だからだ。
誰が超越と人間の関係性を外から記述できる言語体系を作り上げたか。宗教学を見れば分かるが、せいぜい宗教共同体や個人の外面的現象を記述できるに留まっている。
また、上記中田考の論述にあるように、神も啓示も、論理的証明を許さない権威である以上、内面の問題である。押しつけられも、押しつけもできない。
**・救済**
これも上記と同じで、終末を社会が経験していない以上、終末を言語で議論するのは不可能である。
**・愛**
人との関係の愛というよりも、神との関係での愛である。その愛を言明する言語は存在しないので、論証不可能である。
**・死**
同上
筆者にとって「内面」とは、感情や気持ちに基づくものではなく、言語による論証可能性に基づくものだ。つまり、言語によりそれがあるのか・ないのかを論証できないものを「内面」に置いている。
私はこれらのことを他者と議論しない。「議論しない」と書くとまた誤解が生まれるのは知っている。「一切言及してはならない」という意味に取る方がたくさんおられる。
ここでの「議論しない」とは、「神の有無」「救済の有無」「愛の価値の有無」「死の価値の有無」について、存在論的議論をしないということだ。それは言語による論証不可能なテーマであるので、公共の問題になりようがない。
内容について議論することはよくある。「神はなにを望んでおられるのか」「救済がないとすると、どのように倫理性を担保するか」「死の価値が感じられないとすると、どのように生の意味をつくるか」「神という概念なしで、内面の尊重が可能なのか」等々、様々な論点がある。これらは存在論ではないので、言語で豊かに対話可能である。
しかし、神、救済、愛(の価値)、死(の価値)そのものが 「あるかないか」などという愚かな議論はしない。それは論証不可能性に基づく、内面の問題であるからだ。
しかし、日本社会に生きているとその論証不可能な内面の問題を「私は神がいると思っていない」「神がいると仮定したくない」「救済はあるはずがない」などと、存在論において無思慮に踏み込まれることが多発する。
それらの問題がどのように言語で論証可能なのか、私にはわからない。少なくとも、これまでの経験では無神論者側からの有神論者の内面への感情の押しつけにしかならなかった。これは内面の侵害行為である。
上記の押しつけの問題は、有神論者と無神論者の共存において、大きな障害となっている。論証不可能なものを個人の内面に押しつけることは、時として深刻な争いを引き起こすためだ。
この問題は、非暴力的手段によって解決されなければらない。
### 4.内面の尊重と新たな課題
前節では、啓示一神教の内面理解と、日本の日常意識における内面理解の齟齬を論じた。
ここからは新たな課題を検討する。それは、宗教をいかに「心」や「内面」の問題に押し込めてなかったことにせず、相互の対話と重層的な共存可能性を組み立てていくか、という実践的課題である。
私たちが実際に信仰生活を送ると「心」などで収まりのつかない様々な問題に直面することになる。信仰共同体の高齢化の問題、信徒の貧困の問題、イスラーム教の土葬問題、統一教会などの政治問題、無数の社会問題が発生している。これらは「心」で捉えられる問題ではない。政治的、歴史的、経済的、イデオロギー的、つまり全人間的問題である。
また、私たちのような有神論者は個人の信仰においても様々な問題に直面する。私が直面した問題をいくつかあげよう。
**・無神論者、異教徒との共存の問題**
日本社会は積極的無神論者は少数とはいえ、受動的な無神論者は多い。そのような人たちと共に生活していく上で、自分の信仰をどのように位置づけるのか。
自治会の神社の掃除当番、葬式の問題、死生観の食い違いの問題、さまざまある。それらは対話と譲歩と学習によって一致点を見つける問題であり、「心」で済む問題ではない。
**・信仰を持たない周囲の家族や友人の救済の問題**
啓示一神教の場合は顕著だが、私たちには「救済」の約束がある。キリスト教ならばイエスの福音を土台として救済が約束される。では、家族や友人がそれを受け入れていない場合は、家族や友人は死後無に還り、天の国での再開は不可能なのか?これは重大な問題である。
私たちはこの問題にも神学的、思想的に取り組まなければ済まされない。でないと、ニヒリズムに落ち込むか、周囲への宣教の押しつけの問題が発生する。
**・自己中心性の問題**
自分が心の救いを得て、それではいそうですかよかったですね、とは啓示一神教はならない。キリスト教徒ならば、イエスにしたがって自分の十字架を背負うという「自己中心性の克服」を福音書から要請される。
自分の背負うべき十字架とはなにか、どのように背負うのか、何をすればいいのか。これも「心」の問題では済まない。実践と対話の中で、自らの神学を練り続けることを要請される。
以上は一部にすぎないが、このように、信仰には「心」などという矮小な領域に収まらない問題が多数存在するのである。
つまり、信仰者は自身の内面の確信や想いに基づき、常に外界へアプローチしているということだ。そこで重要になる問いは、どのようにそのアプローチを共存可能なものにするかということだろう。
そこで、[[アナキズムについて#神学的問題|この記事]]にも一部を書いたことを、私側からの共存の土台として提示しなおす。
**1.無神論者といえども、有神論者は「救済」の可能性の上に共存しなければならない**
宗教的な排外主義は「異教徒・無神論者は救済に値しない」と前提し、「だから排除してよい」と結論する。だが、そのようなことは啓示一神教の神学においてあってはならない。
ここではイスラームの立場を参照する必要がある。
中田考の論文から、アシュアリー派の教説を引用する。ここで問題となっているのは、異教徒・無神論者の救済である。
>ムハンマドの宣教以降についての「ムハンマドのウンマ」を越えた救済の可能性をめぐっては、アシュアリー派神学が、3つのカテゴリーについてそれを認めている。
>第1は、イスラームの宣教が届いていない者で考察によって自力で唯一神崇拝に辿り着いた者である。このカテゴリーに属する者は「広義の」ムスリムと認められる場合もあり、その救済については、同派の中に異論は存在しない。
>第2は、イスラームの宣教が届かなかったために宗教に無関心に生きて死んだ者である。後期アシュアリー派の通説では、彼らは救済に与る。
>第3は、イスラームの宣教が届かず積極的「無神論者」として確信犯的に神を拒絶して死んだ者である。彼らの救済については同派の中でも見解が分かれるが、救済説も有力である。
>以上に概観した通り、異教徒に救済の可能性が開かれていることは、何世紀にも亘る長い議論の末に、反対説と並んで、スンナ派の「正統」神学の一つアシュアリー派の「学説」として承認されており、「学説」として自由な議論の対象となる。[^fala]
現代は末法の世である。国家と貨幣という偶像が世界を支配し、人は内面や超越を思索する時間もリソースも奪われている。そのような時代において、積極的無神論をとらず、神に対して無関心な人の内面(救済)に対して、私も後期アシュアリー派の学説に基づいて立ち入ることはない(実質的な宣教未達状態であると考える)。
その救いの大権は、神のものである。よって、受動的な無神論の立場の人とも、啓示一神教の神学上、共存する必要性が明記されている。
**2.文明論の視点からも、開かれた法の立場から異教徒との共存が要請されている**
トルコの宗教社会学者[レジェプ・センテュルク](https://www.hbku.edu.qa/en/staff/dr-recep-senturk)はその論文「多様性の中における統一 : 開かれた文明としてのイスラーム」において、イスラーム世界と他文明の共存論を重層的普遍主義を基に展開している。
私はセンテュルクの議論が、啓示一神教徒と異教徒・無神論者の共存への導線となると考えている。引用しよう。
>筆者は、特定の法を特別扱いする態度には全面的に反対の立場であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの西欧宗教に由来する法的伝統はもとより、宗教的、世俗的の区別を問わず、あらゆる普遍的な法制度は、その特徴と構造においてかなりの数の共通点を持つと考えている。筆者にとってはすべての文明が姉妹文明なのである。確かに比較的近い過去で言うと人類の始祖はアブラハムであるが、歴史を遡ると人類の起源はアダムに行き着く。アブラハムの子孫はアダムの子孫である我々の家系樹の1本の枝に過ぎないのである。古代のムスリムの法学博士に倣い、筆者もこう主張したい。すべて の法制度は、アーダミーヤ(人間であること)という共通の普遍的土台の上で結ばれていると。アブー・ハニーファとその弟子たちは次のように唱えている。「性別、人種、 宗教、階級、国、民族などの先天的・生得的な違いに関係なく、すべての人間は、ただ人間であるという理由だけで侵すべからざる存在である」。別の言葉で言えば、人であるという事実そのものが、人間の権利と義務の根拠となっているのである。イスラーム法における普遍主義派はこの考え方に即し、個人レベルで他者に向き合っている。[^gasdgfasgf]
>イスラームの法的伝統について言えば、古代のムスリム法学者たちは皆、世界のすべての法的伝統が同じ基本原則を共有しているという認識を持っていた。その原則とは、生命、財産、思想、宗教、尊厳、家族を侵されない権利である。ムスリム法学者たちは、こうした5つの原則が「法の公理」(*al-Darurat al-Shar‘iyyah*)を構成しており、世界中の法制度がこれを共有していると考えていた。この権利は、法の五大基本原則(*al-Usul al-Khamsa*)とも呼ばれ、ムスリムも非ムスリムも含め、誰もがこの原則に合意していると考えられていた。また法制度がこうした原則に適っていさえすれば、瑣末な問題に対して意見が分かれても構わないとみなされていた(*Furu‘ al-Fiqh*)。[^gasdgfasgf]
センテュルクが論じるように、私もアダムから始まった人類には、有神論者・無神論者問わず「生命、財産、思想、宗教、尊厳、家族を侵されない権利」が神から与えられていると考えている。この視点は、有神論者と無神論者の暴力の抑制、相互否定の抑止となるだろう。
私は啓示一神教の立場から「救済」における神の主権に基づく普遍性、「法」の視点から見た文明共存の可能性を土台として、内面の押しつけ合いや排外的実力行使という暴力に発展しない共存を目指している[^gao8yu]。
同時に、日本の受動的無神論者にも世界の動きから様々な課題が突きつけられている。
東京基督教大学国際宣教センターの資料[^gadga]によると、2016年段階で世界には74億3,266万人の有神論者が生きている。この有神論者たちに対して、無神論者は共存の道を探っていかなければならない。そのためには、受動的無神論者であっても取り組むべき課題はある。
私から提示できるのは
**・有神論者の意味体系の学習**
**・自らの無神論の体系性を有神論者に共存可能性と共に提示できるよう整備する**
**・無神論者側からの有神論者との共存可能性の提出**
等の自らの前提を示す準備をしなければならない。「なんとなく生きているのでしたくない」では、なかなか済まないだろう。
公共的コミュニケーション行為である「討議」において、発言に対して三つの批判可能な「妥当要求」、すなわちその発言が真であるという「真理性要求」や、正当であるという「正当性要求」や、誠実であるという「誠実性要求」が必要であると考えたのはドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスだ[^tew89a]。
上記の妥当要求が疑問視された時、その妥当要求を根拠によって相互主観的に「認証」し、「合意」を目指す行為、それが討議である。
有神論者も無神論者も、そのような公共圏での討議の準備ができていないのなら、異なる他者との共存や「多様性」は夢のまた夢だろう。グローバル化は、このような重大な問題を日本に投げかけている。
私の側からは救済論における普遍性、法論における多層性を共存の土台として提出した。この上で、ハーバーマスの妥当要求に基づく対話を行う準備をしている。無神論者の側からも、そのような土台の提出を待ち望んでいる。
### 結び
このいち私的論考が読者の「内面」の定義に資することを願う。宗教を公共空間から排除し、同時に「内面」を無限拡大し、人という小さな神にならないことも願う。そうなると、上記の重層性や討議可能性に基づく共存可能性が極端に下がってしまうからだ。
同時に、私は「心の問題」を責めているのではないことも強調する。もちろん、宗教にもその領域はある。
私が批難するのは、宗教を「心の問題」に押し込めて矮小化し、自らの偏見に気づかず宗教者の内面を侵害し、歴史や文明を無視して共存の努力を放棄する自閉的態度とエゴイズムである。
当サイトでは[[宗教理解への入門書紹介|このような資料]]を用意し、また日々雑記や小論を公開して、有神論者と無神論者の共存の模索という、難しい十字架を背負おうとしている。
自らの「心」に閉じこもらず、ぜひこれらを役立てて、自らの中にある西欧中心主義と対峙しながら、文明や文化の理解を深めていってほしい。それが、世界平和の実現という陳腐だが重要な理想への具体的一歩となるだろう。
[^fadasa]: 中田考, 2021, 『イスラーム法とはなにか』 作品社, 145-146.
[^gadga]: 東京基督教大学国際宣教センター, 「JMR調査レポート(2017 年度)」(2026年2月24日取得, https://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/2015/08/JMR_report_2017.pdf ).
[^dafsfa]: 中田考,2013,「日本のムスリムに求められるアキーダ(信条)の知識」覚書 (2012年6月12日 国際イスラーム思想研究所東京ワークショップ発表に基づく)」,Hassankonakata,(2026年2月25日取得, https://hassankonakata.blogspot.com/2013/03/blog-post.html?m=1 ).
[^fala]: 中田考, 2008, 「救済の境界 : イスラームにおける異教徒の救済」『一神教学際研究』(2): 63-77, ( https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/63 ).
[^gasdgfasgf]: レジェプ・センテュルク, 2011, 「多様性の中における統一 : 開かれた文明としてのイスラーム」『一神教学際研究』(7): 53-66, ( https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/580/files/r001000070007.pdf ).
[^tew89a]: ユルゲン・ハーバーマス, 1991, 『道徳意識とコミュニケーション行為』 岩波書店, 97-110.
[^gao8yu]: ここで発生する問題は、キリスト教徒がイスラーム教の学説を援用することの正当性である。それについて、私はマルコ福音書の立場に立ち、イエスの告げられた「神の支配」はシャリーアによって実現されると理解する立場にいることを言明することで、その解答としたい。
[^faa]: 松山洋平, 2024, 『ニッポンのムスリムが自爆する時』 作品社, 193.