<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2026-2-24<br>更新日: 2026-2-24
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# それぞれの責任 —「政教分離」イデオロギーに抗して
日本は「政教分離」国家であると言われる。政教分離とは何か。精選版日国をひいてみよう。
>せいきょう‐ぶんり【政教分離】
〘名〙 政治と宗教の結びつきを切ること。信教の自由を確保するためにできた原則。祭政分離。
学校の歴史授業で習うことだが、日本に政教分離原則が「輸入」されたのは、第二次大戦後、GHQが日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた「神道指令」がその始まりである。
そして国家運営における「政教分離」原則は、追って制定された日本国憲法第20条および第89条によって内容が定められた。その後、愛媛県靖国神社玉串料訴訟や砂川政教分離訴訟で判例が蓄積され、現在も国会議員靖国参拝問題などで議論が続いている。
その法制史や思想史について触れるつもりはない。ここで扱うのは身近な日常意識の問題だ。つまり、法学における「政教分離」ではなく、なんとなくの「政教分離」である。
### 宗教は「心の問題」か
まず身近な例をあげよう。「宗教は心の問題」という意識である。この意識の出所はどこか。
日本における政教分離輸入以前から、ヨーロッパでは政教分離が行われてきた。
中世期からカノッサの屈辱や叙任権闘争などで争われていた聖俗の争いが、フランス革命で市民階級を巻き込んで全面化し、結果、フランスでは政治や行政からのカトリック勢力の厳格な分離が進められた。
その歴史の動きに呼応して、ドイツではプロテスタント改革派の神学者フリードリヒ・シュライアーマッハーを中心とした自由神学が生まれることとなる。
岩波の『哲学・思想事典』で「シュライアーマッハー」の項をひいてみよう。
>シュライアーマッハーによれば宗教は独自の精神領域を持つ。それは、理性に根拠を置く哲学や、意志に根拠を置く倫理学とは異なり、感情である。それゆえ宗教の本質は「絶対依存の感情」であると言われる、彼によると神は単なる客観的実在者超越者として語ることはできない。また単なる内面性と同一ではないが、神は人間との避の事実において、体験の反省ないし告白として語り得るとされる。
シュライアーマッハーは自由主義神学の父と呼ばれる。自由主義神学とは、同じく『哲学・思想事典』によると「全般的に自由主義神学の特徴を言えば,近代科学の成果を神学研究が受け入れ,社会の世俗化の傾向が持つ積極面を評価する」と定義される神学思想だ。
自由とは、ローマ帝国およびその継承国におけるカトリックの政教一致、またカルヴァン・ルター的政教一致からの自由である(世俗化)。そして、それゆえに神は教会や国家などの共同体に存するものではなく、個人の「心」の中に存在するとされる。
この近代ヨーロッパに生まれた自由主義神学の「宗教は心の問題である」というテーゼが、戦後日本にも輸入され、日本の「なんとなくの政教分離」の生活意識を規定している。
ここで中田考の指摘を引用する。押さえてほしいのは、このシュライアーマッハーの「宗教は心の問題」であるという政教分離概念は、ヨーロッパのカトリック・プロテスタントの歴史的前提を土台として生まれた批判的概念であるという点だ。
>政教分離の概念は、他の概念と同じく欧米から輸入されたものですが、実はこうした社会システムの複雑化、高度化に伴う機能分化、部分システムの分化に関する理論的考察から生まれたものではありません。日本語では「政教分離」と呼び慣わされている間題系は、英語ではseparation of politics and religion(政治と宗数の分離)より、separation of church and state (教会と国家の分離)として論じられることが多いものです。つまり、ヨーロッパのキリスト教会という組織のローカルな歴史的体験が、あたかも普遍的な原則ででもあるかのように論じられているのですが、そもそも「教会」になじみがない日本ではもっぱら「政教分離」として論じられるために、その特殊ヨーロッパ・キリスト教的性格が隠蔽され見えにくくなっているわけです。
>もともと歴史的得然の産物でしかありませんので、「政教分離」のそもそもの発祥の地である欧米ですら、国によって事情はばらばらです。フランスのようにカトリック教会をアンシャン・レジームの主要敵の一つとした革命により公的空間から完全に宗教を締め出そうとする出俗主義を取った国もあれば、アメリカのように特定の宗派の優遇を禁じつつ公的空間での宗教行為を禁じていないため法廷で聖書に手をおいて宜響する国もあります。ドイツでは国家が教会税を代理徴収しており、イギリスでは国王が英国聖公会の首長を兼ねています。カトリックのバチカン市国に至ってはローマ教皇が元首である文字どおり政教一致の国です。このようにその発祥の地である欧米においてさえも政教分離の概念の内実は千差万別なのであり、とても比較文明論の厳密な議論に堪える学術用語ではありません。[^fadasa]
ローマ帝国の国教として1000年以上統治システムを担ってきたキリスト教。中世末期から近代にかけての世俗権力とローマカトリック教会という、聖俗をそれぞれ担う官僚集団の権力闘争。30年戦争という全ヨーロッパを巻き込んだ大宗教戦争とウェストファリア条約以降の世俗化の潮流などを前提に生まれたのが、啓蒙主義と自由主義神学における「政教分離」であり「宗教は心の問題」という図式である。
日本の「宗教は心の問題である」なので「共同生活や政治などにかかわるべきではない」、それが「政教分離である」という生活意識は、近代ヨーロッパ発祥の局所的思想を無批判に受け入れたものである。この図式は、世界の他をどこに探してもない。むしろ、私の知る限り、現在では日本にしかない。
なぜなら、この図式では、ヒンドゥー教や儒教や神道や仏教やイスラム教などに限らず、政教分離の発祥地である西欧の政治体制さえ実体を捉えることが出来ないためである。
現代は西欧中心だった政治システムが崩れ、世界各地で数千年の歴史を持つ文明圏が新しい運動を始めている激変期だ。私はもういい加減、「政教分離」「宗教は心の問題」などの、局所的かつ曖昧模糊としたイデオロギーでなにかを分かったような気になることはやめて、自他の文明と向き合う時期だと、強く感じている。
### 信仰の問題
また、実際に信仰生活を送ると「心」などで収まりのつかない様々な問題に直面することになる。信仰共同体の高齢化の問題、信徒の貧困の問題、イスラーム教の土葬問題、統一教会などの政治問題、無数の社会問題が発生している。これらは「心」で捉えられる問題ではない。政治的、歴史的、経済的、イデオロギー的、つまり全人間的問題である。
また、私たちのような有神論者は個人の信仰においても様々な問題に直面する。私が直面した問題をいくつかあげよう。
**・無神論者・異教徒との共存の問題**
日本社会は積極的無神論者は少数とはいえ、受動的な無神論者は多い。そのような人たちと共に生活していく上で、自分の信仰をどのように位置づけるのか。
自治会の神社の掃除当番、葬式の問題、死生観の食い違いの問題、さまざまある。それらは対話と譲歩と学習によって一致点を見つける問題であり、「心」で済む問題ではない。
**・信仰を持たない周囲の家族や友人の救済の問題**
啓示一神教の場合は顕著だが、私たちには「救済」の約束がある。キリスト教ならばイエスの福音を土台として救済が約束される。では、家族や友人がそれを受け入れていない場合は、家族や友人は死後無に還り、天の国での再開は不可能なのか?これは重大な問題である。
私たちはこの問題にも神学的、思想的に取り組まなければ済まされない。でないと、ニヒリズムに落ち込むか、周囲への宣教の押しつけの問題が発生する。
**・自己中心性の問題**
自分が心の救いを得て、それではいそうですかよかったですね、とは啓示一神教はならない。キリスト教徒ならば、イエスにしたがって自分の十字架を背負うという「自己中心性の克服」を福音書から要請される。
自分の背負うべき十字架とはなにか、どのように背負うのか、何をすればいいのか。これも「心」の問題では済まない。実践と対話の中で、自らの神学を練り続けることを要請される。
以上は一部にすぎないが、このように、信仰には「心」などという矮小な領域に収まらない問題が多数存在するのである。
### 共存の問題
同時に、日本の受動的無神論者にも様々な課題が世界から突きつけられている。
東京基督教大学国際宣教センターの資料[^gadga]によると、2016年段階で世界には74億3,266万人の有神論者が生きている。この有神論者たちに対して、私たちは共存の道を探っていかなければならない。そのためには、受動的無神論者であっても取り組むべき課題はある。
**・有神論者の意味体系の学習**
**・自らの無神論の体系性を有神論者に共存可能性と共に提示できるよう整備する**
などに取り組まなければ、異なる他者との共存や「多様性」は夢のまた夢だろう。グローバル化は、このような重大な問題を日本に投げかけている。
さて、少々熱くなって語ってきたが、私は「心の問題」を責めているのではない。もちろん、宗教にもその領域はある。
私が批難するのは、宗教を「心の問題」に押し込めて矮小化し、歴史や文明を無視して共存の努力を放棄する自閉的態度だ。
当サイトでは[[宗教理解への入門書紹介|このような資料]]を用意し、また日々雑記や小論を公開して、有神論者と無神論者の共存の模索という、難しい十字架を背負おうとしている。
自らの「心」に閉じこもらず、ぜひこれらを役立てて、自らの中にある西欧中心主義と対峙しながら、文明や文化の理解を深めていってほしい。それが、世界平和という陳腐だが重要な理想への具体的一歩となるだろう。
[^fadasa]: 中田考, 2021, 『イスラーム法とはなにか』 作品社, 145-146.
[^gadga]: 東京基督教大学国際宣教センター, 「JMR調査レポート(2017 年度)」(2026年2月24日取得, https://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/2015/08/JMR_report_2017.pdf ).