<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-2-24<br>更新日: 2025-12-10
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# 歩くということについて
山を、湖岸を歩いている。
空は晴れ、曇り、雪、さまざまに変化する。風の具合も毎日、毎時間違う。ヘラクレイトスが万物は変化の過程にあると洞察したのは、このような環境の変化を洞察したからだろう。
歩くことによって自分も変化する。かつては疎遠だった場所が、歩くことによって身近になってゆく。
その場所から帰った後も、かつていた場所は地図の1点ではなく、「あの時にいた場所」となる。そこへ初めて向かったときの緊張感は、消失している。
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ハイデガーは「近さ(_Nähe_)」という概念を『存在と時間』において、生きられた時間と身体性で捉えた。
> 「手もとに」存在するものは、そのつどことなる近さを有しているけれども、この近さは距離の測定によって測定されるわけではない。その近さは、目くばりしながら「計算に入れつつ」操作したり使用したりすることによって調整されている。配慮的な気づかいにぞくする目くばりによって、道具がいつでもそこで接近可能となる方向にかんしても、こうした近さが意味するのは、その道具がただたんにどこかで目のまえに存在し、じぶんの位置を空間中に有していることではない。道具として、その本質からして、備えつけられ、納められ、あるいは組みたてられ、整備されているということである。道具にはその**場所**がある。そうでなければ、道具は「散らかっている」ことになる。[^kjs89]
手元に存在する道具との距離は、「ただたんにどこかで目のまえに存在」していることによって決まるのでは**ない**。自らがその道具へどのような働きかけを行うかにより、近さ(_Nähe_)は**変化する**。そうハイデガーは考える。
この文章を書いているのは、私が4年ほど使っているREALFORCE R2というキーボードだ。このキーボードは購入したての頃は、私と遠い距離があった。まだ手にも馴染まず、また機能も把握できていなかったからだ。
しかし、現在はこのキーボードの機能を把握し、PC側でキーマップを入れ替え、任意のショートカットの割り当ても行っている。4年前とキーボードの「客観的な」距離は同じだろう。しかし、**私**との距離は遥かに近くなっている。
> 「客観的に」は長い道のりも、「客観的に」はるかに短いそれよりも短いことがあるけれども、それはおそらく後者が「難儀な道」で、そのひとにとっては無限に長いものとして現前するからである。**そのように「現前すること」にあって、とはいえ、そのときどきの世界がはじめて本来的に手もとに存在することになるのだ。**[^sak9]
客観的には長い道のりも、そこにたどり着く困難さに応じて身近なものになる。
私が地図の上でしか認識していなかった湖岸や山は、かつてははるかに遠い場所だった。たとえ車で20分で行けるとしても、そこにどのような危険があるかわからなかった。それらの困難に、どのように対処すればいいか見当がつかなかった。
しかし登山靴を履き、杖をもち、バックパックを担いでその場所が提供する恵みと危険に少しは対応できるようになると、そこまでの近さ(_Nähe_)は近くなる。職場よりもだ。
かつて認識していなかった野の、山の「現前」は、私にとって**存在する**ものとなっている。
どのような営みが近さを、存在を変化させるのか?
ただ単にその場所の情報を知る、写真を見る。たしかに、それだけでも近さは変化する。しかし、その近さが「親密さ」を持つには、ハイデガーに倣って言い換えれば、それらの「現前」(存在)を感じるには、私はそこを歩き、見、感じ、ある時は何かを採取し、ある時は食事をする必要がある。
それは私が「労働」と呼んでいる行為である。
労働価値学説を大きく発展させたマルクスとエンゲルスは、彼らの未出版草稿である『ドイツ・イデオロギー』において、労働をこのように定義している。
> 人間は、意識によって、宗教によって、その他お望みのものによって、動物から区別されることができる。人間自身は、彼らが自分たちの生活手段を生産——<まさに>彼らの身体的組織によって条件付けられている措置——しはじめるやいなや、みずからを動物から区別しはじめる。……生産のこのような様式は、それが諸個人の肉体的存在の再生産であるという側面からだけ考察されるべきではない<のであり、それは>。それは、むしろ、すでにこれらの個人の活動のある特定の方法、彼らの生命を表出するある特定の方法、彼らのある特定の生活様式なのである。諸個人が、<自己を表出する>彼らの生命を表出するとおりに、彼らは存在しているのである。[^sj0]
人は労働なしには生きることができない、というのが彼らの前提である。その労働とは、会社で働く「賃労働」に限定されるものではない。
「彼らが自分たちの生活手段を生産」する、つまり、生きるために行う行為がここでの労働である。その何かを作りだす労働は、個人の肉体的条件により規定されている。手、体力、知力、声、足、体調、眼、耳、身長…..さまざまな肉体的要素が労働に変化を与え、それを規定する。
そこで行われる「労働」とは、「彼らのの生命を表出するある特定の方法」であり、生活そのものであると『ドイツ・イデオロギー』においてマルクスたちは考えた。
私たちが身体を使って生活のために何かを作るとき、その行為は私たち自身(生命)を豊かに表現する「労働」となる。個人が労働するとは、その生命を自己と対象との間で具体化していく営みであり、私たちの存在のあり方であるとされる。
私たちは上記のような労働によって、なにかをつくり出してゆく。
他者との間でなんらかの役割を果たし、自分の仕事道具を使いこなし、自分の周囲の環境と関係を結びながら私たちは労働する。
それは湖岸や山を歩いている時にも行われる。
「あの狭い岩場を渡るのは難儀しそうだ、迂回路をさがそう」と決断し、別の方向に足を踏みだすとき、私は岩場に対し「回避する」という関係性を結び、別の道を足で踏みしめ、五感をフルに使い迂回路を見つけるために働く。
「ここは集落からも見えないし、人もいない。程よくくぼ地になっているので、風も吹かない。ここで昼食としよう」と私が決断し、落ちている枝を集め、火を熾し、スープを温める。私はそのくぼ地と「昼食」という労働を介した関係性を結ぶ。
何かと労働を介して関係性を結んだとき、近さ(_Nähe_)は変化する。
あの虫が多くて嫌な場所は遠くなり(もう行きたくない)、あの落ち着いて食事を採れたくぼ地は近くなる(また行きたい)。
大げさかも知れないが、そのようにして私(たち)は自己を変化させていくと感じている。
昨日まで見知らぬ土地から「遠かった」私は、今日はその土地に「近い」私へと変化するからだ。ある時は近く、ある時は遠く。
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どこかを歩き、見知らなかったものたちとの関係性を労働を介して更新し、自分をも更新していく。
そのような営みは、自由で不安定で開放的で恐ろしいものだ。
> つまり、私が言いたいのは、歩くことによって自分に出会おうとしているわけではないのだ、ということだ。長年の自己疎外から解放されて、自分に出会い直すとか、本当の自分だの、失われたアイデンティティだのを取り戻すだとか、そういった話ではないのだ。歩くことによって、人はむしろ、アイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。なにものかでありたいと思う気持ちや、名前や歴史を持ちたいという気持ちそのものから解放される。[^lsf9]
その自己と存在の更新作業においては、かつて持っていたアイデンティティは意識されないものとなってゆく。そこにいるのは、職場で欠勤しまくって評価の低い「うえの君」でもなく、Fediverseで意味不明なことを投稿しまくるTL破壊者の「うえのさん」でもない。
かつては何ものかであった私が、その記憶を脱ぎすて、見知らぬ土地やものとの新しい関係性に入り、また日常に回帰してゆく。その「日常」は、歩く以前とは変わっている。「私」が労働を介して変化しているからだ。
歩くという行為は**変化**だ。ゆるやかでありながら、危険でもあり、不確かであり、また予想のできない。明日はどこへ行こうか。
[^lsf9]: フレデリック・グロ, 2025, 『歩くという哲学』谷口亜沙子訳, 山と渓谷社, 41–42.
[^kjs89]: マルツィン・ハイデガー, 2013,『存在と時間 (一)』 熊野純彦訳, 岩波書店, 475−476.
[^sj0]:カール・マルクス, フリードリヒ・エンゲルス, 1998, 『草稿完全復元版 ドイツ・イデオロギー』 渋谷正編訳, 新日本出版社, 16−17.
[^sak9]: ibid., 497.